2008年11月10日
中国に純粋血統の‘漢族’は存在しない
こんばんは。
今日はニュースをひとつ紹介します。
以前、漢民族について書きました。
>紀元前二二一年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返した。そして、この興亡の中から漢民族が形成された。
(漢民族の正当化観念“中華思想”の歴史)
これが、中国の遺伝学の学者によって証明されたというものです。
この図は漢時代の中国地図です。
北方にいろんな部族がひしめきあっていますね!

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2008年08月14日
中国結び
今週は北京オリンピックの真っ最中ですね。 そこで今日は「中国結び」という伝統工芸を紹介したいと思います。
中国結とは、現在は多く台湾で研究、発展し続けている伝統工芸です。中国における装飾結びの歴史は古く、古くは春秋時代の遺物にその原型が認められます。当初の使用は王侯貴族に限られていたそうですが、次第に一般にも広まっていきました。唐代と清代に流行し、特に清代のときは結びの種類が増えたこともあり様々な技法で作られました。
中国結では、 掛け飾りやバレッタ・ブレスレット等のアクセサリー、蝶々や亀といった動物など、平面的なものから立体的なものまで、 いろいろな物を作れます。中国結の基本結びは、雙銭結、雙聯結、平結、酢漿草結など、十数種類あり、それらを幾つか組み合わせていくと、 さまざまな作品が出来ます。

では中国装飾結びの歴史を紹介します。
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古代中国の歴史構造図解にチャレンジ
こんばんは、etoです!
北京オリンピックも始まって毎日熱戦が繰り広げられてますね。
俄然、中国に対する関心も高まっているようです。
そこで、まずは↓↓コチラ↓↓をご覧ください。
ファイルを確認する
(サイズが大きいので縮小して見てください;)
これは、一昨年の【なんでや劇場:人類史シリーズ】において扱われた図解です。
本源集団から武力国家に至るまでの過程を、集団統合原理の観点から婚姻制と信仰観念の変遷として構造化したものです。
実によくまとまっていますね。
詳しくはコチラをどうぞ↓↓
『実現論7(前半)武力国家の統合様式』
『実現論7(後半)信仰・宗教観念の成立構造』
さて、中国文明研究チーム?においては、これまで古代中国の様々な疑問に対し挑んできましたが、ここらでひとつ古代中国史をまとめてみようということになり、先日から歴史図解の作成に取り組み始めました。そこで活用したのが、上の図解というわけです。
というわけで、武力国家に至る成立構造図解の古代中国版を作成していきます!!
簡単に図解化してみて分かったことは、これまで中国文明においては、私有婚や私有権について殆ど追及できていなかったこと、また守護神信仰の変遷における祖霊信仰との関係、などです。
時代毎に、黄河文明と長江文明でどのように関わりあいながら変遷していくのか、繫ぎ合わせる課題を追求しながら図解を完成していきたいと思います。
叩き台の図解をここで紹介できればよかったのですが、ちょっと間に合わなくて(汗)、、、
今後のお楽しみということで、乞うご期待!
posted by nishipa : 02:54 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年08月02日
人格神信仰の始まり~古代中国~
中国最古の都市国家が成立していた紅山文化では、大規模な祭祀センターの形跡があり、遺跡からは、女神像と、熊、猪、巨鳥崇拝を表す塑像や、大規模で複雑な建築物も発掘されています。
それぞれの信仰対象から、その宗教的特徴を取り出してみると、
女神 → 母系集団
熊、猪 → 狩猟民族
鳥 → 天・太陽への信仰
これだけ見ると、なんでもありな感じで、なんだかよく分りませんね。
実は人類の信仰対象は、段階的に移り変わっていく様です。
諏訪春雄さんのHPに、こんな記事があったので紹介します。

この写真は、現在の中国内モンゴル自治区に位置する紅山遺跡のものです。
posted by maeyan : 19:10 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年07月19日
【古代中国】遼河文明の概要~基礎データ
こんばんは!
これまで中国第三の文明として「遼河文明」について扱ってきましたが、ここで一度基礎データとして周辺文化も含めまとめて置こうと思います。
遼河文明の遺跡図です。(こちらからお借りしました。)

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2008年06月22日
道教の本源性を探る~『道徳経』の教えより
>④道教の根っこはどこにある?
・母系共同体を源流とする道教の本源性を探る。リンク
さて、今回は道教について調べてみました。
以前に、『道教~母系氏族社会を源流とした共同体規範』においてその本源性を紹介しましたが、今回は『老子』から『道徳経』の紹介です。
『道徳経』とは、中国の春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』とも表記され、『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。道教では『道徳真経』ともいう。
中国には数千年にわたって人々の心に大きな影響を与えた書として、『易経』、『論語』、『道徳経』の3つがあります。
『易経』は夏・商・周の時代の原始宗教が残したもので、その中に古い巫史文化の形跡を見ることができます。
『論語』は儒家の祖師孔丘の教えを伝えるもので、その中には周代の父権宗法社会の礼教の特徴が見られます。
『道徳経』は周代の史官老が著した道家と道教の典籍で、中国の最も古い母系氏族社会の原始宗教の伝統を受け継いでいる、と云われています。リンク
母系氏族社会の伝統とはどんなものか!?、覗いてみましょう!
posted by nishipa : 17:58 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年06月21日
中国の焼物の歴史(日本の縄文時代と同時期編)
日本の縄文時代は、年代でいうと今から約16,500年前から約3,000年前(紀元前10世紀)の約13500年間続き、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代です。その永い期間に日本は特別進化したわけではなく、逆に永い間に日本人の潜在思念を作り上げてきたということが言えると思います。縄文土器も同じく、その間特別に進化したわけではありません。
縄文時代と同じ時代、方や中国は黄河文明、長江文明、から殷、周と王朝支配まで時代が変わっていきます。そして中国の焼物は、日本の縄文土器とは違い、次々と進歩しました。窯と釉を発明し、施釉陶器を生み、さらに精製・選別した白色粘土による磁器を発明しました。この磁器が世界の磁器の牽引役となったのです。日本をはじめ、南北朝鮮・ベトナム・タイ・カンボジアなど、古代から中世にかけて、いずれも中国陶磁をその母体に持っています。また近世にいたっては、ヨーロッパの磁器の源となりました。人気の高いウエッジ・ウッドやロイヤルコペンハーゲン、マイセンなど、みな中国磁器を母体としています。
中国の焼物の歴史(日本の縄文時代と同時期編)を紹介します。
続きを読む "中国の焼物の歴史(日本の縄文時代と同時期編)"
posted by norio : 22:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年06月07日
中国、母系→父系制への転換期③:強大な母系集団“三苗古国”vs父系集団“竜山文化”のせめぎあい
中国古代は、強力な母系集団(特に長江文明の三苗)が残り、黄河流域の中原に依拠した父系集団の竜山(龍山)文化と対峙し、数百年に渡って緊張した関係にあった。紀元前3000年~2500年前ごろのことです。

長江の中央部あたりに見える、屈家嶺文化のあたりが三苗と長江文明の中心部。石家河文化もこのあたり。
(図は、古代であそぼさんからお借りしました)
続きを読む "中国、母系→父系制への転換期③:強大な母系集団“三苗古国”vs父系集団“竜山文化”のせめぎあい"
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2008年05月12日
中国文明の起源~興隆窪文化の概要報告
中国文明における“龍”の起源を探り、前回は紅山文化から興隆窪文化まで遡りましたが、ここで中国文明の起源のひとつと言われる遼河文明の興隆窪文化について押えておこうと思います。
(主にこちらより引用しながら紹介します。)

この写真は紅山文化、牛河梁遺跡の碧眼女神像です。
何故に“碧い眼”の女神なのか? この謎も含めて調べてみました。
こちらは遼河文明の遺跡図です。

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2008年05月11日
中国文明:遊牧部族が侵入したのはなんで?
先日、遊牧民族の動向を調べましたが、逆に、彼らはなんで度々中国へ侵入したのか?単純に、遊牧部族の戦闘性だけを理由付けにしても何か片手落ちな気がしました :m196:
:m118:
な の で
:m118:
彼らはどんな外圧に晒されていたのか?調べてみました。 :m193:

遊牧の生活はとても厳しい~ :m008:
byさーね
今日は、楽しい世界史~遊牧生活はキビシイを参考にさせて頂きました :m061:
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2008年04月29日
中国古代:竜山文化期の遊牧民族動向
中国、母系→父系制への転換期①:BC3000年の竜山文化は既に父系制・身分制への時代は、やはりその後の王朝成立や春秋戦国時代への歴史過程を考えると、中国史上転換点 :m008: の時期であると思います :confused:
今日は、中国を調べるのではなく、周辺地域からこの時代の遊牧民族の動きを追ってみました :o
:m118: :m118: :m118: :m118: :m118: 地図でいうとこの辺り :m118: :m118: :m118: :m118: :m118:

byさーね
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2008年04月27日
中国最古の祭祀 ~その意味は?~
前回の記事では、紅山文化のあらましを紹介しましたが、今回は宗教センターについてその意味合いを追求してみたいと思います。
紅山文化(5000~6000年前)は採集、狩猟、漁猟を基盤としており、中国の他地域がすでに農耕、牧畜へと移行していることからすれば、紅山文化が縄文文化に最も近い関係にあるといえます。
紅山文化の社会では宗教が発達し、5000年前には空前の規模の宗教センターが出現します。
その祭祀遺跡は、女神廟、祭壇、積石塚群、金字塔形大型建築から構成されており、女神廟の中には数多くの女神土偶が奉納されていました。
この女神像はなにを意味する :roll: のでしょうか?

写真は、東山嘴遺跡の祭壇跡から発掘された土偶です。(写真は考古用語辞書さんから拝借しました)突き出たおなかは、妊婦を表したものとされています。
posted by maeyan : 22:35 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年04月13日
中国古代母系集団は、父系軍事集団(遊牧由来)に服属することで吸収・解体されていったのではないか?
中国における母系集団から父系集団への移行について、その移行段階を大きく概観するため、調べてみました。
地図:紀元前5000年~3000年くらい前の中国 古代で遊ぼさんよりお借りしました。
続きを読む "中国古代母系集団は、父系軍事集団(遊牧由来)に服属することで吸収・解体されていったのではないか?"
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2008年04月12日
龍の起源~精霊信仰より生まれた守護神
こんばんは、etoです!
“龍の起源を考えることは、文明の起源を考える事に他ならない”とは、かの安田喜憲氏の言ですが、あらためて龍について考えてみます。
saahさんの『神々の変遷~自然神・・・水の神”龍”』においては、龍について以下のように書かれています。
>古代中国において、初めは純粋に水を自由に操る神として崇拝されていたものが、やがていつの間にかその自然を自由に扱う神秘な力を持った存在が、民を自由に支配する皇帝の呼称になり、、、
確かに龍といえば、大河で生まれた水の神、あるいは蛇信仰が原点になっていると思いますね。
でもちょっと違うようです。

この写真は、約6000年前(新石器時代)紅山文化の牛河梁遺跡にて発見されたもので、玉猪龍と呼ばれている物です。イノシシ? そう、なぜに猪なのか、史実をもとに見ていきましょう。
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2008年04月03日
中国文明のなんで? PART2
こんばんは、etoです。
いつも応援いただき、ありがとうございます!
さて、最近は主に中国文明を追求していますが、このところちょっと停滞気味(;^_^A
そこで、改めて追求テーマを設定してみました。
①中国第三の文明“遼河文明”(=興隆窪文化~紅山文化)って何?
長江、黄河以外に古くから文明が形成されていた遼河地域が注目されていますが、遼河文明の特徴として以下の点に着目してみたい。
・中国最古の玉文明~西アジアとの交流?を探る。
・中国最古の龍~守護神信仰の起源を探る。
・中国最古の祭祀~その意味を探る。
・三内丸山、アイヌとの関連を探る。
②父系に転換したのは、何で?
(服属しながら父系に転換したとは、どういうことか?)
母系から父系への転換は、すでにihiroさんより投稿されましたが、継続テーマとして追求していきます。
③市場の起源~地域間交流はあったのか?
黄河文明と長江文明の間で地域間交流があったとされていますが、それは交易(市場)なのか、贈与(友好)なのか、はたまた何なのか?
④道教の根っこはどこにある?
・母系共同体を源流とする道教の本源性を探る。
・東洋医学、気孔、漢方などの起源は?・・・道教に関係する?
以上のようなテーマに取り組んでいきます。
その前に、前回の追求テーマにどう取り組んできたか、見てみましょう。
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2008年03月15日
中国文明:中国の地形と気候
今日は中国地図を記事にしてみたいと思います :-)
:m118: ということで、こんな地図をつくってみました :m118:

中国地図vol.1 :m119: ここをクリックすれば大きくなります :m051:
中国大陸は広大っ :m051: :shock: 歴史を調べていても、場所がどこだがわからなくなる時もあります :confused:
その地の環境がイメージできると、歴史もより鮮明になると思います :o
若干、現代的になってしまいますが :m196: 、当時の自然環境を大きく捉えることはできるのではないでしょうか :m050:
byさーね :m044:
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2008年03月03日
中国の母系から父系への転換期はいつか?
古代中国では、生産性の向上をきっかけに、男女の役割分担が変わっていく中で、母系社会から父系社会に転換していくという説や、洪水の治水が父系への転換のきっかけになってきたという説等、いろいろ諸説ある様です。
じゃあ、その転換期はいつなんだろう :roll: と思っていたところ、こんな記事がありました。
中国における最古の国家 :m261: は夏、殷(商)、周に始まるというのが通説ですが、これ以前に中国の北方で栄えていた紅山文化(BC3000~4000)において、最近、気になる研究結果が提示されました。

写真は、紅山文化を代表する猪竜という玉飾りです。これは、中国で始めて登場した竜の原型とされています。
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2008年02月03日
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史③~夏王朝は羌族の手によるものか?
中国西北部の高地にいた古代羌族が、黄河上流に斉家文化、長江上流に三星堆文化を起したであろうことは前稿で書きました。今回はさらにその続きです。
●まずはトルコ石のお話から。
下の左の写真は斉家文化(BC2000)の玉製牌飾?らしく、右の写真は二里頭文化初期(BC1700頃)の青銅製牌飾です。(こちらよりお借りしました。)


続きを読む "中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史③~夏王朝は羌族の手によるものか?"
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2008年01月27日
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史②~内陸部への進出の足跡
こんにちは。
前稿では、中国西北部にいた遊牧民族の古代羌族が、中原に進出、あるいは南進した概要をお伝えしましたが、今回は、具体的にどのような足跡を残したのか、紹介していきます。
ここで再び中国の地図を紹介。

(古代で遊ぼさんよりお借りしました)
>青海から甘粛にかけての地域に、馬家窯文化と呼ばれる新石器時代(4000-5300年前)の遺跡が発掘されている。これらの主は古代羌族と考えていいだろう。
>青銅器時代(3000-4000年前)になると、斉家文化(甘粛から青海にかけて)やカユエ文化(青海湖東の湟中県)、寺ワ文化(甘粛)、上孫家寨類型(青海大通県)、辛店文化(甘粛)、諾木洪文化(青海都蘭県)などが次々と登場するが、どれもやはり古代羌族と考えられる。土器表面の紋様を見るかぎり、高度な文明をもっていたことがうかがえるが、中原の漢族の影響や交流も同時に感じられるのである。
>チベット高原の東部、チャムドでは、カロ(Kha rub)遺跡(4000-5300年前)という謎めいた大規模遺跡が発掘されている。古代羌族はこんなにも早くチベット高原にたどりついていたのだろうか。出土物からは西域やカシミールとの交易も考えられ、古代はわれわれの想像よりはるかに交流が活発に行なわれていたのかもしれない。
>中国の学者は、古代羌族の南下のもっとも早い例は、4、5千年前の雲南・四川にまたがる大敦子および礼州遺跡ではないかと見ている。
近年注目を浴びている四川盆地の「超古代文明」、三星堆遺跡の主は古代羌族と血縁関係にあると思われるが、より具体的にはテイ族の一種、巴人ではなかろうか。テイ族は低地に住むようになり、遊牧から農耕へと生活をシフトしていった羌族とみられている。(以上、「送魂路」さんより引用)
どうやら、古代羌族は5000年前(BC3000年)くらいに黄河上流や長江上流へと進出し、遊牧から農耕へと転換し、定住化しては高度な文化を築いたものと思われます。
また、BC3000年頃においては、下の図に見るように、各地の文化間の交流があったようなのです。
(中国的こころさんよりお借りしました)
>B.C.3000年代は、黄河中・下流域の龍山文化のほかに、黄河上流域の斉家文化、長江中流域の屈家嶺・石家河文化、長江下流域の良渚文化が並存し、それぞれ自立的な発展をたどりながら、地域間の交流が活発になって、地域をこえた共通性が現れるようになりました。
>山東・湖北で産する豆形土器は、中国西北部の山西龍山文化に伝わりました。
良渚文化で産する玉琮・玉璧も山西龍山文化に伝わり、さらに陝西龍山文化・斉家文化に達しました。
>山東龍山文化で産する玉璋・玉斧・玉刀も山西龍山文化に伝わっています。
一方、西北部から河南・山東地域には鬲形土器や羊の飼育、卜骨の風習が伝わっています。
>これらを見るに、相互に生産物や風習が交流されていたことがわかります。それは隣接する地域の間を少しずつ伝わっていき、しかも各種ある生産物のなかから一部だけが選択的に受容されていったものであり、各地の生活方式を一変させるようなものではありませんでした。つまり生産物を輸出する側に主体があったわけではなく、あくまでも受容する側に主体があったのであり、強い強制力はそこに発生したとは考えにくいのです。
(以上、「中国的こころ」さんより引用。)
この“交流”とは一体なんなのでしょうか?
古代羌族が黄河上流につくった斉家文化には下流の山西龍山文化の影響が見て取れるし、長江上流につくった三星堆遺跡からは下流の良渚文化の影響が見て取れる。 “交流”というからにはその逆があって然りなのですが、しかし逆方向は無いのです。
これは何を意味するのでしょう?
仮説ですが、中国西北部の高地にいた古代羌族は黄河上流へ、長江上流へと進出し、さらに下流へと進出していくなかで、下流の高度な文化を手に入れては持ち帰った。このようなことが何度も何度も行なわれては上流に定住するようになり、一方の下流域においては遊牧民から守るために環濠集落を構築していった、のではないかと思われます。
良渚文化、山東龍山文化、石家河文化、山西龍山文化などの下流域の文化はB.C.3000年代末のほぼ同時期に崩壊しています。それは洪水なのでしょうか?それとも、、、遊牧民の仕業なのでしょうか?
そしてその後、中原においては夏王朝と想定される二里頭文化が生まれるわけです。
、、、良渚文化などが一斉に滅んだのは何故でしょうか?
、、、そして、二里頭文化(夏王朝)の主は誰だったのでしょうか?
また疑問がでてきました、引き続き追求していきます。(by eto)
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2008年01月21日
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史①~略奪の始まりは羌族か?
さーねさんの前作では、人間扱いされなかった「羌」や「南」の“異民族”のことが紹介されましたね。
この「羌」とは一体何者なのか? 調べてみました。
>羌という文字は甲骨文のなかに頻出する。商(殷)王朝と戦って捕らえられた羌人は人身御供、つまり祭祀の生贄とされたのである。(「送魂路」さんより引用)
>古代羌族(きょうぞく)は、陜西省から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)にいた遊牧民族で、白狼を崇拝し、自らを白狼の子孫一族としています。
>羌族はチベット系民族ですが、その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族で、やがて、中国西部に広く勢力を伸ばしてきます。三皇五帝以前より、度々中原に進出し、葛藤と同化を繰り返します。やがて同化し、漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれます。
南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となります。その時代になると、南羌族のトーテムは「羊」に変わっています。「白狼」崇拝は、西羌族だけとなり、彼ら一族は、時に胡人とも呼ばれるようになります。(「レアメモリー」さんより引用です)・・・漢水とは長江の支流のことで陝西省の南部を指します。
>チベット高原の東端、四川省西部の山岳地帯は、かつて幾つもの古代民族が移動と興亡を繰り返した地域である。数千年前、中国西北部の古代民族「羌」の一部は故地を追われ、新たな土地をもとめてここを南下したという。現在、この一帯に居住するチャン族やギャロン、白馬、ナムイなどのチベット族および雲南のプミ族は、この古代「羌」の末裔と目される人々である。(松岡正子氏の論文より引用です)
ここで中国の地図を載せておきます。
青海湖辺りに西羌族、天水辺りに南羌族がいたわけですね。

(古代で遊ぼさんよりお借りしました。)
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2008年01月19日
中国文明:意識の源流を探る~「人間」ではなかった人々
最近、中国ネタの記事を読んでいて、ふと感じたこと。やはり、この国の人々の意識は何か違和感を感じざるを得ない :confused: 一体、どこに源流があるのだろうか :m050:
今までは、どうも支配する側の意識を追求しすぎていたと感じた。今日は、支配する側だけでなく、農民などの庶人の意識などにも視点を置こうと思います :wink:
じゃぁ、どの時代か…やはり殷ではないかと考え、史実を改めて追ってみると…

これほどの扱いを受けると人間の意識はどうなるのだろうか?恐ろしさを感じた :m196:
byさーね
:m118: 応援よろしくお願いします :m051: :m118:
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2008年01月07日
漢民族の正当化観念“中華思想”の歴史
こんばんは、etoです。今年もよろしくお願いします。
以前、「中国文明のなんで?」にて、“なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?”というテーマをあげ、いくつかの書込みをいただきましたが、今回は“中華思想”について勉強しましたので紹介します。
●中華思想を平たく云うと?
「中華思想」の「中華」ですが、これは「中」と「華」からなっており、「中」は「世界の中心」を意味し、「華」は「夏」-支那史上初の世襲王朝「夏王朝」を表し-転じて「支那」自体を意味しています。つまり、「中華」とは、世界の中心である夏(華=支那)と言った意味なのです。
「中華思想」では、支那の周辺諸国は「野蛮な異民族」とされ、その地理的(方位的)所在に合わせて、東夷(とうい-朝鮮・日本)・西戎(せいじゅう-チベット・中央アジア)・南蛮(なんばん-東南アジア・インド)・北狄(ほくてき-満州・モンゴル)に分類されています。(以上、リンクより引用しました。)
●どのように中華思想が形成されたのか?
中華思想は春秋時代に形づくられたとされる。そして、その形成には漢民族の形成と周の文化が大きく関連している。
●では、漢民族はどのように形成された?
紀元前二二一年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返した。そして、この興亡の中から漢民族が形成された。すなわち、漢民族とは、諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「夷」「戎」「蛮」「狄」の子孫であり、夏・殷・周もこれら夷狄によって作られた国である。
そして中華思想は、周王朝の実態が弱まり、権威が薄くなった春秋時代に生じたが、その時代は漢民族が前から引き続き、さまざまの民族の血を取り入れて構成されつつある時代でもあった。ところが、政治的に周王朝の実態、権威がなくなっても文化的まとまりをもってきた漢民族は、周王朝の存在を否定するものではなく、たとえ形だけになっても周王朝の権威を尊重していた。
●周の権威がなくなった後も、周を尊ぶのは何故か?それが、周の文化の中心である徳や礼のためであると考えられる。そして、中華思想では特に「礼」が大きく関係している。
●周の社会システムにおける「礼」の役割とは?
周王朝の最大の特色は、周室と諸侯、諸侯と群臣とが周室を中心にした巨大な分節社会(封建制)を形成していることであり、しかもこの社会は、同血族社会ではなく、異性の者が分封されていたこと。さらにこの社会は、周王―諸侯―氏(卿・大夫)……と下部に至るに順って、即ち、周室を本とし、その分派が末端に及ぶに順って、その所有する財産(例えば領土面積・人民数など)が次第に逓減する所に在る。
周において、国の秩序を守るために政治の力や刑罰によって規制するのではなく、「礼」を重んじることで、人民のほうから近づいて来ると考えられていることがわかる。周時代における「礼」は、分節社会(封建制)の秩序を構成するために重要な役割をしていた。
●儒教における「礼」とは?
春秋時代、周の文化を再現することを理想とした人物がいた。それが孔子である。
『孟子』滕文公上に、(吾夏を用て夷を變ずる者を聞く。未だ夷に變ずる者を聞かざるなり。)とある。ここには明らかに華・夷の差別が存在している。華・夷の別の出現、これが、中華思想が周を経て、春秋時代に形成されたと考える理由である。
周の時代、「礼」は社会構造の秩序を構成するものであった。それが、儒家の中では華・夷を区別する基準になっているのである。しかも、ここで重要なことは、華・夷の差別が種族的なものや血族的なものではないことである。すなわち、夷も華の「礼」を身につければ、華の仲間入りができるのである。
中華思想の特質について、地理的・文化的な要素から自国を世界の中心とする考え方は、中国以外の国(バビロニア・インドなど)にも存在していた。しかし中国には、他国とは明らかに違う要素が存在していた。それが、道徳的政治思想・王道政治という要素であり、この考え方は、他の国には見られないものである。
●中華思想とは?
中華思想は漢民族の形成と大きく関わっていた。つまり、中華思想は漢民族の持つ思想であると言っていいだろう。その漢民族を世界の中心とし、他の周辺民族を「東夷、西戎、南蛮、北狄」と分けて蔑視することが中華思想である。そして、中華思想における差別は地理的なものではなく、文化的なもの(礼)である。
中華思想の一面である保守排外の傾向は、「我々は世界の中心である」とする中華の自負心・自尊心が傷つけられた時に現れる。そして逆に、国家の自負心・自尊心が傷つけられる事がない時、開放博愛へと傾く。中華思想の保守排外の傾向が強いとき、自国と「夷・戎・蛮・狄」の差別は強烈になる。そして、開放博愛の傾向が強い時、夷狄との婚姻・盟約が行われる。簡単に言えば、自分が危険だと思ったならば自分を守り、自分が安全だと思ったならば仲良くする。こう考えると、中華思想はなんとも単純なもののように見えてくる。
漢民族が形成され、日常生活において礼の考えが重視され習慣となる。その漢民族の習慣は周辺の国とは違うものであった。自分と他者との文化の違いを見ただけならば、周辺の国と友好関係を保つことができたのかもしれない。しかし、周辺の国が中華を圧迫する。その時、自己を守る必要が生じた。そこで、自らの文化を自らが尊いとする事で、周辺国家との格差を作った。そこで生まれたのが、「夷・戎・蛮・狄」の存在だった。ここに中華思想の二面性の完成を見る。
昔の人が、自分の住む地域を「中心」と考えるのは自然であろう。中華思想は、簡単に言えば自己防衛の手段だ。攻められるから闘い、平和であれば闘うことは無い。ごく単純なのだ。
(以上、「清朝の中の中華思想」より引用しました。)
★簡単にいえば中華思想とは、自民族(漢民族)を第一とする正当化観念であり、周時代の支配体制における成功体験を母胎に、「礼」という序列規範を中心観念として春秋時代に形成されたもの、と云えるのでしょうか。
さて、気になったのは、>夏・殷・周も夷狄によって作られた国である<という点で、王朝成立以前の古代中国において、東夷、西戎、南蛮、北狄の諸民族がどのようにせめぎ合っていたのでしょうか。次回は、中でも西戎(羌族)の歴史について調べてみたいと思います。 (by eto)
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2007年11月17日
教科書では教えてくれない(遊牧の起源) 西アジア~中央アジア~中国年表
遊牧の起源を押える為に、るいNETWORK掲示版の「遊牧の起源と特異性」の有用な投稿を、頭を整理する為に以前に投稿した「教科書では教えてくれない中国年表」に追記して見ました。
この作業を通じて感じたことは、遊牧における各々の時代の投稿内容が、実に良く連関していることが分かりました。
更に驚いたことは、「遊牧の起源と特異性」の年表が、先に投稿した「黄河文明と長江文明」の年表に繋がったことです。又、この2つの年表を繋げたのは、BC11000年:ヤンガードリアスの寒冷化、BC6500年:ローレンスタイド氷床融解、BC4000年:北緯35度以南の乾燥・砂漠化、BC2000年:火山爆発で灰が空を覆う。といった大きな環境変化でした。この人類史を知りたい方は是非、見てください!!!遊牧の起源を追求したい人はポチッと押してね!
「教科書では教えてくれない(遊牧の起源) 西アジア~中央アジア~中国年表」
ファイルをダウンロード
年表の構成は、時代毎に、「気候変動=環境外圧」⇒エポック⇒闘争区分(ここは中国のみの記載です)⇒交易・情報伝播⇒黄河文明⇒長江文明⇒中央アジア・モンゴル(遊牧の変遷)⇒西アジア(遊牧の変遷)を見ていくようにしています。追記した中央アジア・モンゴル、西アジアに青色で網掛けしています。又、追記した文字は濃い緑色で記載しています。最上段の気候変動、環境外圧の欄の青文字と関連しながら見ていくと、遊牧民族の発生から騎馬民族への変遷過程が見えてくると思います。
基本的に生物は外圧適応態と言われていますが、この年表を通じて人類も例外では無かったと理解出来ます。尚、年表に記載されている参考NO(例msg:○○○)の投稿を張り付けておきます。
(尚、【 】内は私の疑問で、投稿とは関係ありません。)
時間を要しますが一読しながら年表を見ると、教科書には書かれていない西アジア~中央アジア~中国の歴史が、そして遊牧民族の起源が見えてくると思います。
皆様の役にたてば嬉しいです。一緒に追求して行きましょう。
・投稿「131588」:環境史からみた西アジア(農耕~略奪の起源)
・投稿「85771」:ステップ地帯へ拡散して同類闘争を回避したレヴァント南部の採集部族→遊牧の起源?
・投稿84104:農耕・牧畜が始まった地域における自然圧力の変化(気候変動)
・投稿52477:ステップ遊牧民と砂漠・オアシス遊牧民の起源
・投稿94845:西アジアの気候変動①(8200~7800年前ミニ氷河時代、7800~5800年前気候最適期)
・投稿131577: 5800年~4200年前の西アジア(乾燥化による略奪闘争の開始)
・投稿52832:最初の遊牧民は徒歩移動
・投稿92143:遊牧民族の登場から私権国家の成立まで
・投稿152412:遊牧と騎乗
・投稿141984:遊牧は牧畜の遠征から始まった
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2007年11月03日
中国:数々の歴史書の輩出は何を意味しているか?
歴史事実を発掘するという作業は大変だなと思う今日この頃 :nihi: 中国は、発掘調査と共に、やはり数々の歴史書から当時の社会背景をしっかりと押さえ、その上で読み解くという作業が一定必要だと思う :tikara: 最近、中国の歴史書の代表格『史記』を読んでみようと思い、以下の著書を読み進めているところです :o

『史記・貨殖列伝を読み解く 林田慎之助著 講談社』
中国は、歴史書の数でも有数の文明であると思うのですが、なぜ、そのような歴史書が数多く輩出されたのか?ここは実は不思議なところでもあります。それと共に、歴史書を読み解く上で、ここはしっかり押えておいた方がよい。その、手掛かりになりそうなところを今日は紹介しようと思います :o
発憤著書ということばがある。文字通り、憤りを発して書物を著すという意味のことばであるが、これを最初に使ったのは、司馬遷であった。司馬遷は、思想・文学を言語に表現した著作を創造する動機には、作者の側に発憤の心的状況が存在していたと考えるもので、中国の古典的作品を創造した著者たちのおかれた状況に照らしてみても、発憤著書の動機説を認めざるをえないと語っている。
:m118: 歴史は事実を知ることが大事 :m051: :m118:
:m118: 今日も応援お願いします :m051: :m118:
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2007年10月21日
中国の特有の人間関係 「幇」
>・なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?・・・・・ちょうどるいネットでも紹介されていますが、中国人は血縁の結束力は強いが、他に対しては出し抜くことばかり考えているという。その源流はどこにあるのでしょうか?中国文明のなんで?
こんにちは、Hiroshiです。
中国人の身内での結束力と、身内や親しい人以外に対しての割り切り、非情さ。その性質を巡って中国人に対する評価が、大きく分かれているように思います。
それを解く鍵・キーワードは、「幇」(“パン”または“ほう”)という言葉にあるようです。
★中国社会の構成は極く簡単にまとめると、
縦軸(血縁のつながり)として父系集団としての「宗族」があり。
横軸として仲間や連帯の契りを結んだ「幇」がある。
宗族についてはとりあえず、 「中国社会の基本構造:宗族と祖先崇拝・儒教」を参照してほしい。ここでは、主に「幇」について調べてみたい。
みなさん「幇」ってご存知でしょうか?僕なんかどうも青幇・紅幇なんかの秘密結社?とかを思い出してしまうのですが、どうも中国人至るところ「幇」ありという感じらしい。
たとえば、世界中に進出している華僑。華僑より>
華僑は「幇(パン)」という同郷同胞の連帯組織を作り、相互扶助を行う。
「幇(パン)」には次の2種類ある。・郷幇(きょうばん)……籍貫(しゃくかん)(=出身地)に基づく地縁的集団。会館(同業・同郷・同族者らが集会用に異郷に建てた施設)、義塚または義山(共同墓地)、学校、病院などを建て、相互扶助を行う。 主な郷幇は、福建幇、潮州幇、客家幇、広東幇など。
・業幇(ぎょうばん)……同業者で作る職業的連帯集団。仕事上の便宜を与え合う。
・・・地域生活や仕事の共同組織としてかなり生活に根をおろしている様子がうかがえます。
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2007年10月20日
中国文明:中国という国の本質は?
今晩は、さーねです :o 以前、おざわさんが記事をアップされていた中国の夏王朝はあったのか?その投稿に、tanoさんがコメントされていた一文です。
それにしてもこれまで中国は周から始まったといい続けられてきたのはなぜでしょう?単に遺跡が発掘されなかっただけでしょうか?中華思想にとって周以前の歴史事実は不要である。伝説にしてしまえ。そんな国家側の意図があったようにも思います。
夏王朝が伝説にされたり、商王朝が極めて卑劣残虐な王朝と伝えられるのは僕は事実を歪曲して伝える中国の体質があるように思うのですが考えすぎでしょうか?
このブログで中国文明の勉強を始めて感じることですが、歴史事実をなかなか見極められないのが僕の実感です :confused:
今日は、東アジア考古学の研究者である京都大学 岡村秀典氏の著書「夏王朝 中国文明の原像」より、氏の問題意識を紹介し、中国の本質とは?その一助になればと思います :o
この本、ブログでも結構評判良いようです :m027: :D
:m118: みんなで事実を追求するために :m051: 応援を :m118:
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2007年10月07日
中国戦国:斉の首都 臨淄①~市場の起点:遊楽用の離宮の様子
臨淄の人口は、約五,六十万人をかぞえていたわけで、これは、古代においては驚くべき巨大都市である。この臨淄の市民には富裕なものが多く、町は市場を中心にして娯楽、演芸が盛んで、音楽・闘鶏・ドッグレース・博打・蹴球・曲芸その他あらゆる種類の娯楽が盛行していた。大道には車がぎっしり詰まって停滞しており、街路は遊行の人々が互いに肩と肩とが触れ合うばかりであった。そして、このような臨淄のにぎわいに匹敵するような都市が何ヶ所かあったというから、戦国時代の中国における都市の繁栄は驚くべきものである。(古代中国 講談社学術文庫より)
今晩は、さーねです :o 今日は中国:戦国時代の都市:斉(セイ)を通じて、さらに市場の様子に迫りたいと思います。日本は縄文晩期~弥生前期にさしかかったところ…そういう意味で、筆者同様僕自身も驚きでした :shock:

斉の首都 臨淄:実は河と海に近い…海上交易品も市場に流通したかも :m052:
今日も応援よろしくお願いします :m051: :m118: :m118:
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2007年09月11日
中国における紙幣の発展
こんばんは~ :m017: みつこ :D です。
さーねさんの「中国文明~春秋戦国~国乱れる時…市場が発達する!」を興味深く読ませてもらいました。
なんと :shock: 、紙幣を世界で始めて発行したのは中国だそうです。宋時代に四川地方で流通した“交子”というものです。
その発達してきた過程を詳しく述べたもの :m062: があったので、長くなりますが、紹介したいと思います。
応援おねがいしま~す :m092:
ありがとうございます :m101:
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2007年09月09日
中国文明~春秋戦国~国乱れる時…市場が発達する!
今晩は。さーねです :o 先月のなんでや劇場にて、市場論が扱われました :D (詳しくは、Trend Reviewの8/11なんでや劇場「ブログ『晴耕雨読』の市場論に学ぶ」の論点を見てください。)
最近は、BRICsと言われるように、中国も投資対象国=経済成長著しい新興国として注目されています :wink:
今日は、このブログらしく :m051: 古代中国の市場を遡り、戦国時代の市場の状況について、アップしたいと思います :tikara:

戦国の中国~まさに国乱れる…
:m118: 古代文明も現代に繋がる認識がある :m051: :m118:
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2007年09月01日
教科書では教えてくれない中国年表
るいNETWORK掲示版の「黄河文明と長江文明」の有用な投稿を、頭を整理する為に1枚の年表にまとめて見ました。各々時代の投稿内容が、実に良く連関していることが分かってきました。
中国の歴史を知りたい方は是非、見てください!!!みたい方はポチッと押してね!
posted by sakashun : 21:22 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年07月30日
中国人の二重規範
古代中国ファンの皆さま、こんばんは。
中国に村落共同体は存在しなかった。の記事に対し以下のコメントがありました。
中国の個人主義を西欧のそれと区別しなければならないと思います。 中国人は一旦信頼関係を結ぶと友人を絶対に大事にします。 つまり仲間にさえなれば絶対的な協働関係が維持できるのです。 中国という集合体が4000年以上に渡って多民族の合衆国であり、拠り所となる規範や集団が自らの 家族しかないという辺りが、その特殊性を作っているのかと思います。
たしかに西欧の個人主義とは違い、信頼できる仲間は大事にしますね。しかしその一方では欲の塊で殺し合いも辞さないという側面も持ち合せてます。
その二重構造は、いったい何を背景に、どこから生まれているのでしょう?
中国4000年の歴史において連綿と連なる民衆の意識構造について、「中国人の二重性」を参考にしながら考察してみます。
↓↓多くの方に見ていただけるよう、応援よろしくです↓↓
posted by nishipa : 18:33 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年07月28日
先史中国の掠奪闘争から王朝形成まで
中国関連、すごく投稿が増えてきてうれしい!ただ、少し全体像がわかりにくくなったので、ここで内容整理のため、中国の先史略奪闘争史をまとめてみました。
いままでの投稿を参考にまとめたものです。BC4000年頃に掠奪闘争が開始されたメソポタミア(今のイラク)方面の関連が分かるよう、初期のメソポタミアの動きも記載してみました。

メソポタミアと中国をむすぶ中央アジアの草原ルート
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2007年07月17日
中国先史年表~母系から父系へ~
前回に引き続き、生産様式の変化が、母系→父系への変化を引き起こしたという説を補足する意味で、同じく「図説中国文明史1先史文明への胎動」でまとめてある先史年表を紹介します。
○生産様式の変化
BC10,000~6000:
華北、長江中流域、華南などで定住生活を始め、農耕、家畜の飼育、土器の製作が始まる。BC 6000~5000:
黄河、長江流域が二大農耕区となり、農耕は焼畑から鋤耕に移行。黄河中下流域では雑穀農耕が発達し、長江流域では稲作農耕が代表的。BC5000~3000:
長江流域では、稲作農耕が発達。石器、土器、骨器、木器の製作は高水準に達する。水田耕作に適した多様な農具が開発される。
ここでは、黄河流域と長江流域での生産様式の違いに注目。
道具が発達したのは、稲作中心の長江流域。日本の稲作文化との繋がりも気になります。
○集団の変遷
BC6000~4000:
・血縁紐帯による同一氏族が暮らす集落が出現し母系氏族共同体が形成される。
・氏族メンバーの地位は平等。
・原始宗教、アニミズムの始まり。龍への崇拝は、抽象的な神霊崇拝への移行を示し、専業的なシャーマンが出現する。BC4000~3000:
・母系氏族社会は後期に移行し、父系氏族社会への過渡期となる。
・黄河流域と長江流域で防御性の高い城壁が形成される。
・東北の紅山文化では宗教が発達し、女神廟、祭壇が出現し、玉器製作センターを形成。
・長江流域の良渚文化では農耕が発達し、南方の玉器製作センターを形成。祭壇と貴族墓地が出現し、神権と軍事統率権を集約した部族連盟の首長の出現か?
ここでは、生産性が上がるに伴い、城壁が高くなり、母系から父系へ移行していったという関連性に注目したい。生産性の高さが、周辺部族間の交流を促し、そこから争いへと移行したのだろうか?
BC3500~2000: ・私有制を伴う父系氏族社会が到来。民主制の平等社会はしだいに排除。 ・黄河流域と長江流域は、相次いで首長制の「古国」へと移行。城寨が林立し、略奪性の高い戦争が発生。伝説の五帝はこの時期の首長とみられる。BC2500~2000:
・黄河流域と長江流域では、父系氏族共同体が瓦解し、各古国は若干の政治集団を形成する。夏族、殷族、周族と夷、蛮などの文化が交錯し、軍事的な衝突も発生。
・BC2100に夏族の首長である禹は治水に成功し、夏族の勢力が強大化して黄河中流域の大部分を統治し、部族連盟の首長となる。BC2070に禹はその地位を子の啓に譲り、中国史上最初の王朝 :m261: である夏を建立し、先史社会は終了する。
さて、母系の始まりから、王朝の成立までを追いかけてみましたが、黄河流域、長江流域のどちらが母系か父系かと言う視点は、存在しない様です。いずれも、母系集団を母体に生産性の向上に伴い、集団が拡大していき、戦争の拡がりと歩調を合わせる様に、父系へと移行している様にも見えます。
まだまだ、掘り下げていきますよ~。
応援よろしくお願いします。
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2007年07月16日
中国専制国家体制 ~「法」を媒介とした厳格な百姓支配システム~
中国の社会は、共同体的な土壌をかなり早期に失ってしまったらしい。どうしてそうなったのか?
前回 「中国に村落共同体は存在しなかった」の続きです。

西尾幹二氏が注目している研究家、渡辺信一郎氏は、上部構造の中核をなす国家それ自体の解明と分析が決定的に疎かにされてきたことに疑問を抱き研究を進めてきたという。
超巨大国家中国の本質に迫るためには、その視点は不可欠というか、必要条件だと思う。
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2007年07月15日
中国に村落共同体は存在しなかった。 ~共同体を知らない個別二者関係が積層した社会~
中国は、血縁関係が非常に強く、そのネットワークによる助け合いもすごいという話をよく聞く。そう聞くと、ぼくなんかは30年くらい前までの日本の姿をイメージしていたのだけど、一方で、中国人はかなり個人主義的で利己的だという話もよく聞きいており、イメージのギャップを埋めることができずにいた。

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中国文明:殷の婚姻制~統合の根底には必ず婚姻制が深く関わっている
今晩は :m028: 相変わらず、殷を攻めるさーねです :P
今日は、殷の婚姻制を通して、いかに婚姻制が社会統合に関わっているか?を伝えられたらと思います :m051: しかし、この当たりの資料はネットにはほとんどなく :-( 、るいネットや知られざる人類婚姻史と共同体社会を参考に考えてみたいと思います :wink: 以下が、まず殷の婚姻制の説です :m118:
>殷王朝は十の宗族からなる主要な2つのグループにわかれており、交叉イトコ婚を繰り返しながら、父系のオジからオイへと交互に王権を継承したと推定している。(「中国の考古学」同成社より抜粋)

殷王朝 第30代 帝辛(蔑称:紂王(ちゅうおう)→こう言えばわかる人も多い :m052: )殷王朝 第30代 帝辛(蔑称:紂王(ちゅうおう)→こう言えばわかる人も多い?)~ただし、これマンガです :nihi:
殷代を記した古典「封神演義」は実はマンガになってるんですね~ :shock:かなーり脚色されてますが… この紂王の事例は最後の方で引用したいと思います :nihi:
:m118: :m118: みんなで追究しよう!!古代文明♪ :m118: :m118:
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2007年07月14日
中国における母系→父系転換を追求するにあたり
こんばんは、etoです。
先に『中国文明のなんで?』において、古代の母系社会と、父系への転換について挙げました。
このテーマを追求するにあたり、人類の婚姻史を専門に追求する姉妹サイト:「知られざる人類婚姻史と共同体社会」より、中国関連の投稿を調べてみましたので、参考として紹介します。
■まずは、母系社会の様子について
>古来日本でも行われていた通 い婚を続け、子供たちは生まれた家に残り、女性は家を切り盛りし、男性は自分の姉妹の子供を「家の子」として育てます。中国政府の圧力にも屈せず続いてきた母系社会と通い婚。血の繋がった家族が互いに協力しあい、争いや嫉妬を生まない、静かで豊かな社会がそこにはあります。
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 1
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 2
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 3
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 4
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 5
>現在のハニ族は父系社会ですが、信仰での女性の役割の大きさは、かつての母系社会の痕跡でしょうか。いずれにしても、ハニ族は自然に対する同化・感謝の気持ちを強くもっているは確かなようです。
>モンゴルでも国家成立以前は、『遊牧ながらも母系の色彩が強かった』
>しかし、その婚姻様式も強制的な漢化の圧力が高くなるに従って、その様相の変化や若者の戸惑いが表面化していく事に・・・。それは意外にも「自殺」という選択をしている事に私は驚いてしまいました。
モソ族、ナシ族、ハニ族などの投稿から、母系社会の様子が窺い知れます。
いち早く父系に転換したモンゴルにも母系が残っていたんですね。
さて、次はその父系転換です。
続きの前に、
多くの人に見てもらえるよう、クリック願います。
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2007年07月01日
中国文明:森に囲まれた殷墟~霊的儀礼としての狩猟
今晩は、さーねです :D
殷については、このブログで色々調べられてきましたが、その支配の構造や祭祀の状況などがクローズアップされてきました。今日は、殷時代の生活をより鮮明にする上で、当時の気候・自然環境と狩猟について紹介したいと思います :m051:
参考にさせて頂いたサイトは、原宗子のホームページのちょっと覗こう!!古代中国の環境です :m051: :o 学生向けの講義用レポートのようで、量はありますが面白いです :-)

:m118: なんと、古代、殷墟の周りは森だった :m051: :shock: :m118:
今日、見渡す限りの麦畑やトウモロコシ畑が広がる殷墟周辺、つまり、自然の森林など稀有な場所に、100年の間、2,3日おきに狩猟ができ、収穫がある(卜辞には、鹿やイノシシ、水牛に近い動物などが、数十頭~数頭捕獲できたという記録が残る)ようなしんりんが広がっていたという状況である。
原宗子のホームページより
中国文明はまだまだ未解明 :m049: :m118:
一緒に追究しませんか :m051: :m118:
![]()
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2007年06月30日
中国文明のなんで?
こんにちは、etoです。
カッピカピさんが『縄文時代のなんで?』をUPしていただきましたが、更に盛り上げるために『中国文明のなんで?』をあげてみました。継続テーマも含め、古代中国ファンのみなさん、頑張って追及していきましょう!
新テーマ①
・古代の母系社会は、どんな社会を形成していた?
その婚姻制はどうだったのか?
新テーマでもないですが、やはりここは外せないですね。
洞窟を出た古代中国人は、どのような生活をし、どのような婚姻制だったのでしょうか?
これまでの関連投稿は、
古代中国が一妻多夫制だったって本当?
中国の母系氏族社会
道教~母系氏族社会を源流とした共同体規範
古代中国:母系氏族共同体の特徴
継続テーマ①
・母系→父系へは、いつどのように転換した?
るいネットでは、父系の始まりは遊牧民族であり、掠奪の玉突きと共に各地へ拡がっていった、とされています。且つ、父系転換が人類史のターニングポイントだったと。これも外せないテーマですね。
『古代中国:父系氏族社会への移行』においては生産様式が採取から農耕へと変化するのに伴い父系に転換したとありますが、どうだったのでしょう。
そこで、次のテーマに繋がります。
これまでの関連投稿は、
中国文明の王位継承=世襲制とは?
中国文明:姜寨遺跡の婚姻制~男達の性への欠乏△・掠奪前夜
古代中国における父系制への転換と宗教
古代中国:父系氏族社会への移行
新テーマ②
・北方遊牧民族はどのように中国文明に影響を及ぼしたのか?
父系の始まりが遊牧民族であるとすれば、彼らはいつ南方へ下りてきた(攻めてきた)のでしょうね。そして、どのような関わりがあり、何が変わっていったのでしょうか?
これまでの関連投稿は、
波状的に遊牧民がやってきた古代中国~殷(商)・周~
馬が強大な軍事国家を作り出した。
騎乗技術が遊牧民族を巨大な軍事国家へと後押しした?
馬の家畜化により製鉄技術向上と戦争が激化した
新テーマ③
・なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?
ちょうどるいネットでも紹介されていますが、中国人は血縁の結束力は強いが、他に対しては出し抜くことばかり考えているという。その源流はどこにあるのでしょうか? 今や中国はアメリカ以上のビジネスパートナーですが、彼らを良く知らなければうまく付き合っていくこともできませんね。
掠奪闘争の長い歴史、社会規範の変遷、思想的背景などいろいろありますね。そこで、一部関連する疑問として↓④に続きます。
これまでの関連投稿は、
黄河文明は恐怖の人骨文明か !?、ゾゾー・・・
黄河文明 古代の戦争は呪力と呪力の闘い!?
新テーマ④
・中国にはなぜ多くの民族が存在し、今も現存するのか?
いったい、どんな民族があり、どんな生活をしているの?
母系氏族社会の共同体規範は消滅してしまったのだろうか?
③のテーマと関連するか分かりませんが、中国には生活様式がまるで違う少数民族が多数存在しますね、日本では考えられないことですが、今でも○○自治区なんていうのがあって、未だに国家として統合されていないんじゃないかという疑問もあります。いったいどうなっているんだろう?
新テーマ⑤
・戦国時代、一度に大量の学者が発生したのはなんで?
これも③に関係するか分かりませんが、戦国時代には諸子百家なるものが登場しては活躍していますね。いったいなぜ同時期に多数の学者・学派が登場したのでしょう? そしてどのように思想的に統合されていったのでしょうか?
新テーマ⑥
・中国文明から縄文に、何が伝わったのか?
縄文との関連テーマですね。
これまでの関連投稿は、
長江文明の担い手『苗族』が日本に渡来し、稲作文化を伝えた
あれこれと疑問発であげてみましたが、他にもあれば是非お寄せください。
また、関連投稿を載せてみましたが、これまでもるいネットでは多数の追求投稿があり、むしろそちらをまとめてみる方が、どこまで追求されていて何が残っているのかが整理されるので、必要かもしれません。これは、各テーマに挑む有志にてチャレンジして欲しいと思います(笑;)
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2007年06月19日
支配された民衆が求めた道教
前投稿にて、父系転換に伴い、国家による民衆支配のために宗教が必要とされたことを紹介しましたが、では一方の支配されていた民衆の側はどうだったのでしょう?
●腐敗する国家と、疲弊する民衆
>東漢の終わり頃、自然の力よりさらに強大な社会的な力によって抑圧・搾取され苦しめられた民衆は、耐え難い苦難から逃れるために宗教を強く求めた。
>東漢の順帝以後、政治は腐敗し、宦官や外戚が権力をもてあそび、気風に節操はなくなっていた。桓霊の時代には、士族の名士や太学生が朝廷の政治を批評して宦官を糾弾し、党錮の獄[特定の党派の人々を弾圧したこと]が起こり、知識人を惨殺し、世論を弾圧した。朝廷は民衆の支持を失い、国家は大本から揺れ動いた。官僚は横暴になり田地を併合したので農民は土地を失った。日増しに難民は増え、災害が続き、経済は崩壊した。中国の家長制の農業社会の中でも、朝廷が冤罪事件を起こし、しばしば知識人を惨殺した。社会には厖大な難民の階層が出現し、盗賊や流賊が暴れ回り、さまざまな教派や秘密結社が競り合い伝播した。こうしたことは、往々にして国家が滅亡する前兆である。当時、「漢の世は衰えた」というのは一般的な認識で、人々は平和で豊かな新しい時代が訪れることを願っていた。
>漢末に社会不安が増すと、国家に従属していた儒教は人々の心をつなぎとめておけなくなり、この機運に応じて必然的に道教が生まれた。道教は儒教に代わって世を救い、帝王を助けて太平の世をつくるためのものだった。道教は、儒家の倫理教条の影響を受けて仙人に成るための必要条件を作成した。これは道教が儒教に取って代わったのではなく、宗法封建の秩序を守るために儒教を助けていたということである。道教は封建皇帝のための「第2の儒教」として機能したのである。
●なぜ道教が求められたのか?
>儒家の礼教は専制制度を論証し社会教化する行為規範であり、仏教は人々を脅し誘惑し麻痺させて奴隷を安心させる精神的な麻薬だった。
>三大世界宗教が霊魂の解脱を追及し、来世の利益を重視する。三大世界宗教は死後に天国という楽園で生活することを考え、冷淡な態度で社会の現実生活に対処する。
>道教は原始社会で自然発生した自然宗教と階級社会で作られた倫理宗教の結合体である。避けようのない死や災厄は、最初は自然の力によってもたらされたが、その後は封建社会の国家機関による社会の力によってもたらされた。だから、道教の神仙は死や災厄を克服し、逍遥自在であるが、それは自然を超えた力を神格化しているだけでなく社会を超えた力も神格化しているのである。道士は、自然の力や社会の力を超越し、理想の現世利益を獲得するために修練するのである。
>原始社会の歴史は階級社会の歴史より長い。母系氏族の原始宗教は、長い歴史の中で、女性崇拝の習慣風俗と思想という伝統を作り出し、それは長い年月を経ても伝統文化の中に残っていった。伝統は社会や民族の中で最も保守的な力であり、一朝一夕に形成されるものではない。しかし、いったん民族や社会の伝統となった文化要素(宗教信仰、思想観念、社会風俗、政治経験、生活習慣など)は、伝統の惰性のために、無理に放棄したり一刀両断に断ち切ったりすることはできない。母系氏族社会の原始宗教が伝統という染料を中国文化という大きな瓶の中に入れてしまった以上、その後いくら父権家長制という宗法礼教の男尊女卑の伝統が優勢になっても、やはり古代から蓄積してきた文化の中に女性崇拝の痕跡を見ることができるのである。現存している伝統文化は必然的に祖先の情報を含んでいるので、道家や道教文化の中に古代の母系氏族の原始宗教の痕跡が見られるとしても不思議ではない。
★ここに歴史を学ぶ意味がある。
儒教は父権家長制を支える序列規範に過ぎず、仏教は現実を麻痺させる麻薬に過ぎなかった。
それに対し道教は、父系制に転換するはるか以前より民衆の生活の中で自然発生した原始宗教であり、民衆のDNAに刻印された本源的な規範を色濃く残すものであったからであり、だからこそ民衆は道教に可能性を求めたのだろう。
現在の日本の置かれた状況も漢末と同じようなものだ。否、日本ばかりでなく人類的な危機を迎えた状況ではもっと深刻だろう。
今こそ歴史を学び、はるか太古の先人に学び、生かし伝えていく必要があります。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
もいちど、応援よろしくです。
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2007年06月18日
古代中国における父系制への転換と宗教
こんばんはetoです。
前回の投稿では、道教が古代中国の母系氏族社会を源流とした自然宗教であることを紹介しました。リンク
今回は、母系から父系に転換し、国家の成立とともに宗教がどのように関わっていったのか、前回同様に仙学研究舎さんより紹介しながらまとめてみました。
少し長くなりますが、お付き合いを。
●道教の定義とは?
>道教は中国の古代の母系氏族社会で自然発生した原始宗教である。
その変化の過程で、巫術禁忌、鬼神祭祀、民俗信仰、神話伝説やさまざまな方技術数を取り入れ、道家黄老の学を旗印と理論的な柱とし、儒家・墨家・陰陽家・神仙家・医家などの諸学派の修練理論・倫理観念・宗教信仰なども取り入れた。
人々を救い、長生し仙人に成り、さらに道と一つになることを総合的な目標に掲げ、神学・方術なども含む雑多な宗教体系である。それは漢の時代に特定の歴史的条件のもとで絶えず仏教の宗教形態を取り入れ、次第に発展し中国の伝統的民衆文化の特色を備えた宗教となった。
様々な要素を取り入れて統合しているわけですが、それ故に道教はまるで得体の知れない物であると言われています。
要するに、
・道教の源流が母系氏族社会で自然発生した原始宗教であること
・漢の時代に黄老の学が神学化・方術化したこと
・中国の儒家・道家・仏教およびそのほかのさまざまな文化要素を取り入れたこと
・その目標は人々を救い、長生し仙人になり、道と合し神に通ずること
●母系から父系への転換
>仰韶文化の時代がちょうど母系氏族社会の最盛期に当たる。当時は洪水の多い時期だった。
それぞれの部族が治水事業を行っていく中で次第に文明が発達し、父権が重んじられるようになった。
>禹の時に洪水は克服され、夏王朝がはじまる。これ以後、中国は次第に父権家長制の階級社会へ移行し、原始宗教は次々と変革されていった。
>殷、周の時代には、父権の原始宗教の代名詞ともいえる宗法礼教が確立され、ついに男尊女卑の新しい伝統によって統治されるようになった。これが儒家の文化の始まりである。周代には世卿世禄制度が施行され、学問は官のものとなり、官と師が一つになった。
>春秋戦国時代になると、封建地主経済が周代の宗法領主経済に取って代わり、世卿世禄制度は衰えた。階級関係(君、卿、大夫、士、庶民、奴隷)も変化し、貴族と庶民の間に介していた「士」の階層が急速に拡大した。また伝統文化の担い手も、もとの封建的な身分から解放された。士の階層は自由に流動できる四民(士・農・工・商)の首位となり、社会的な理想・文化素養・社会的責任感をはっきり認識していた。厳密に言うと、中国の古代の知識階級はここに至って出現したのである。
>しかし、母系氏族の原始宗教の伝統は民間に隠れたり外の部族へ流入し、途絶えることはなかった。中国が儒家の父権家長制によって統治されるようになってからも、道教では女仙を賛美し女性成仙が語られた。道教の中には、原始宗教の女性崇拝が残されているのである。
つまり、
・父系転換→父権家長制の階級社会→儒家の台頭
・しかし道教は民衆のなかで途絶えることはなかった
●父系転換により、なぜ原始宗教が変革されたのか?
>秦・漢の時代、中国は一つの封建帝国に統一されていた。皇帝は家長制の独裁政権を強化するために、鬼神迷信を利用して民衆の思想をコントロールする必要があった。中国社会の低層の農民・漁民・きこりなどの労働者は文字が読めないような状態だったので、彼らに《論語》、《礼記》、《孝経》などの儒家の著作を見せても理解できなかった。彼らが謀叛を手助けしないようにするためには、宗教によって教化するしかなかった。
>漢代の皇帝は、このような政治的な必要性からまず周代の伝統だった宗法礼教を復興することに力を注いだ。続いて神をでっちあげ、儒家を宗教化していった。御前会議を開いて儒家の宗教化をあおりたて、《白虎通》を国家の教科書として欽定し、「三綱五常」を神聖化した。また、孔子を教主として奉じ廟を建てて祭った。「忠孝」を官吏を選抜する尺度とし、全国で家長制を推し進めた。
>秦の始皇帝や漢の武帝は封禅を行い仙道を求めて古い宗教の精神を復活させ、漢代の政治・学術は宗教という濃い霧に覆われた。東漢の時代には讖緯神学が儒家の正統派となり、儒家と伝統的な宗法礼教との結び付きはどんどん緊密になった。古代の宗教の亡霊は完全に儒教に取り付いたのである。
つまり、
・封建帝国を統一し、人民を統治していく為には宗教が必要であった
・父権家長制を強化するために儒家を宗教化した
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2007年06月17日
古代中国:父系氏族社会への移行
前回の「古代中国:母系氏族共同体の特徴」に続き、父系社会の始まりについて紹介します。
(「図説中国文明史1先史文明への胎動」より)
約4000年前になると、黄河流域と長江流域の氏族集落は相次いで父系氏族社会へと移行します。最初それは父系の血族集団で、かつ生産体系でもありました。集団は、生産力の増加にしたがい、いくつかの父系親族の共同体に分かれます。父系制への移行は、核家族と私有財産の出現とあいまって、私有制の社会へと変化していきました。

この写真は、陝西龍山文化の遺跡で、玉人の髪飾りという装飾品です。
集落の首長か、崇高な地位にある神職シャーマンの姿だと推測されている様です。
posted by maeyan : 17:37 | コメント (0) | トラックバック (0)
中国文明:『宦官』が物語るもの~個人まで貫通した権力意識
今晩は、さーねです :o
今日は、中国の『宦官』の歴史を調べてみました :tikara:
宦官とは…
中国で、貴族や宮廷の後宮に仕える去勢 :shock: された男子。元来は宮刑に処せられた者を用いたが、王侯の側近となるため、去勢を志願する者もでた。西アジア、ローマ、ギリシアなどにもみられる。
諏訪春雄通信37
去勢…日本には、宦官制度は存在しなかったし、僕にもなぜそこまでするのか :m050: 想像がつきません :-( :m004: :m002:
『宦官』制度に至ったのはなぜか :m050:
可能な限り、その当時の事実構造に迫ってみたいと思います :m051: :tikara:
今日参考にさせていただいたサイトは、学習院大学教授の諏訪春雄先生のサイトです :o :m117:

中国の宦官
:m118: :m118: :D 毎回、応援ありがとうございます :m051: :D :m118: :m118:
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2007年06月04日
中国文明:姜寨遺跡の婚姻制~男達の性への欠乏△・掠奪前夜
今晩は^^さーねです :o
>中でも母系から父系への転換は興味深いテーマです(縄文ー古代通信 NO3(19年6月号))
中国文明の国家や市場の話は結構ネットでも資料があるのですが、この辺の情報は、実はなかなかネットでは資料がなく、そろそろ本で勉強しようと思っていたところです :-( ただ、国家の形成と同時にやはり各集団はどのような営みだったか?⇒集団はどのように統合されていたか?
やはり、婚姻制 :m021: の変遷がキーポイントになってくると思われます :D
今日は、姜寨(きょうさい)遺跡から見られる婚姻制の一事例を皆さんに紹介したいと思います :m051: :tikara:

防御のための環濠を掘る様子
今日参考にさせていただいたのは、
レアメモリーの古代・黄河文明研究
るいネットより
漁労・採取系民族における婚姻制の変遷
仰韶文化中期における父系氏族統合の背景分析
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posted by sawatan : 19:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年06月02日
古代中国:母系氏族共同体の特徴
前回から、更に遡ってみました。古代中国では、原始的な群居と血縁家族の社会から、約8000~6000年前に母系氏族社会 :m102: に移行しています。この母系氏族共同体とは、どんな社会だったのでしょうか?
(「図説中国文明史1先史文明への胎動」より)

写真は、「邪馬台国大研究ホームページ / 遙かなる西安」から拝借した、半波遺跡の集落復元模型です。この頃の環濠は、獣よけの機能が中心だった様です。
縄文時代と同時期の中国が、どんなだったかを比較してみるのも、おもしろいですね。
まずは、ぽちっとどうぞ。
posted by maeyan : 19:47 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年05月23日
遊牧民族の統合例
こんにちは。○です。
以前の記事でも取り扱われていましたが、今回は遊牧民族についての記事を・・・。
遊牧部族はその機動性から、戦争において卓越した戦力を保有していました :tikara:
当然、歩兵中心の敵を蹴散らすのは造作も無い事です。
中国は宋の時代に、17名の騎馬兵に対し2000の歩兵で敗退する、というようなことまであったようですから、その戦力差はかなりのものだったようです。
そんな圧倒的な戦力をもった遊牧部族ですが実は大きな弱点があったのでした・・・ :m002:
posted by maru : 21:38 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年05月22日
道教~母系氏族社会を源流とした共同体規範
こんばんはetoです。
前に「中国と日本の死生観の違いって?」において道教に少し触れましたが、今回はその起源について紹介します。

ご存知、なんで屋カードですね。
“女は慈愛にあふれた素晴らしい存在”、、、いい言葉ですね。
実はこれ、道教の教えと関係しているんですね、
ホント?と思われた方は、ポチっと押しながら次を読んでね。
posted by nishipa : 18:00 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年05月21日
世界文明 vs 縄文・・・・そして反転がはじまる!?
この↓図版をみて、驚いた。1万年が一目瞭然!注目です。

※この図は佐原真氏の作成らしい、秀逸です。図は「国民の歴史」より
スキャンしたので、傾いて粗っぽい画像ですみません。
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2007年05月20日
中国文明【殷】:十干(⇒十二支)は王の称号だった!?
今晩は、さーねです :P
やはり中国古代王朝の成立に迫るには、殷の甲骨文字に迫る必要があるのではないか :m052: 最近調べる中で、皆さんもよくご存知の十二支の元である十干が、甲骨文字発祥であることを知りました :m027:
なんで十干をつくり出したのか :m050: 一般に、十干は以下のように説明されます。
十干(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素の順列。天干(てんかん)とも言う。…古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支と合わせて干支(「かんし」または「えと」)といい、暦の表示などに用いられる。 ウィキペディア

説明の通り、暦にも使われる干支という意味で、僕らにもなじみの深いものです。その起源である十干=甲骨文字にこめられた秘密に迫りたいと思います :m051: :D
今日はこんなサイトを参考にさせて頂きました。改めて歴史の奥深さを感じます :m051:
「十干・十二支」の成り立ちと 3300年前の甲骨文を読んでみましょう
:m118: :m118: 十干⇒十二支の意味するところは :m050: ぜひクリックしてから :m051: :m118: :m118:
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posted by sawatan : 13:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月19日
縄文時代、既に農業(稲作)はあったが、普及しなかった訳
こんにちは、simasanです。
今日は、日本での農業(稲作)の起源の話です。
戦後まもない頃に発掘された静岡県登呂遺跡からは水田跡や炭化米、農具が発見され、これにより稲作は弥生時代になって初めて日本に伝えられたと考えられていました。しかし、弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことが明らかになっています。
さらに、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中からは、6000年前のもの最も古いプラントオパールが検出され、それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえ出てきたのです。

注:プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05・程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができるそうです。
では、何故、縄文時代は稲作が普及しなかったのでしょうか?
知りたいっと思った方は、ポチっと お願いします!
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2007年04月30日
中国文明:支配は食にも及ぶ!?~中華料理の起源とは?
今晩は、さーねです :o
今日は、先日のラーメン文様の秘密!?に続き、”食 :m078: ”のネタです :m029:
たまたま、ネット探索中に東京対馬館さんで面白い”食ネタ”に出会いました :m051: :P
今日のネタはとても簡単です。
GW連休中、中華料理を楽しむ方達もいるでしょう。食を楽しむだけではなく、なんでこんな食文化になったんだろう :m050: ちょっと考えてみると、また食事も楽しくなるのではないでしょうか :m050: :D
:m118: 知りたい人はぜひ応援をー :m051: :m118:
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2007年04月29日
中国と日本の死生観の違いって?
お墓の話題が続いていますね、こんばんは。
今回は中国文明からアプローチして、死生観のサワリに触れてみたいと思います。
日本の諺に、
「人生は夢のごとし」、「生ある者は死あり」などありますね。
いずれも人生の無常を説いたものですが、これは仏教が伝わって以降です。
一方で、日本には儒教の教えも影響していますね。
>死者の魂はこの世のしがらみから解放されれば一応成仏したというが、その後も定期的にこの世へ戻ってくる(あるいはわれわれが招き寄せる)と考え、その時に備えて死体の一部を墓に納めて管理し、招かれた魂と死体が依りつけるようにと位牌を用意する。そもそも丁重な祖先祭祀の出発点として、盛大な葬儀を催す。(『沈黙の宗教―儒教』と宗教の本質より)
それよりも、儒教や仏教が伝わる前から、
>日本人は死を意識しながら生きている民族であり、日常的に経験する死の場面を文化にまで昇華させているように思われる。自然の摂理に融け込みながら、死を生活の一部として淡々と取り入れ、自分が人生の最終局面に向かい合うときにはいかにしてきれいに死ぬのかを考えているようである。(やまさんのブログより)
このような日本人の死生観は、もっと追及していきたいところです。
さて、一方の中国では、
死刑囚の臓器売買を行なったり、皮膚から化粧品を作ったりと、日本人の感覚からは考えられないようなことを平気で行なっていますが、ここには死生観の違いが影響しているようです。
では儒教の強い中国では、どのような死生観なのでしょうか?
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2007年04月22日
農業と文明と環境の関係
農業は産業革命と並んで文明発展の転換点となったといわれていますが、「人類は何故農業を始めたのか」、またその「農業が生んだ古代文明はその農業の失敗によって滅んだ」という視点から「ユーラシア1万年の農業史から人類の未来を考える 」取り組みをしている人を紹介しよう。
posted by ryujin : 21:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年04月14日
ラーメン文様の秘密!?
皆さん、なにげに食べているラーメン。その器の定番、あの四角い渦巻き模様って何を示しているかご存知ですか?あれはラーメンの模様ではありませんでした。

中国で雷をかたどった伝統の文様で、雷光を四角い渦で表わしている。雷は、渦巻く黒雲から生じるため、それを表現しているらしいです。

写真「古代王朝殷」より
↑ この写真は獣紋面と言われるもので、中央に獣の顔、左右に雷紋が広がっています。ラーメンの器にちょっと似ていますね。
posted by ihiro : 21:37 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年03月22日
中国文明&縄文:漢字はなんで必要になったか?~支配のためだった?
みつこさん⇒ぴんぐ~さん⇒さーねが勝手にバトン受け取りました :wink:
以前、さーねも中国文明~なぜ漢字=表意文字か?超国家を統合するためだった!?で、文字ネタ調べてみましたが、今日は漢字文化圏の文字として焦点を当てたいと思います :m051:

神代文字:日本において漢字伝来以前に存在した文字 :m052: :m052: :m052: しかし、学会では後の信仰のために捏造されたものと言われています。(ウィキペディア参照)
(写真は、神代文字より)
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posted by sawatan : 22:04 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年03月20日
馬の家畜化により製鉄技術向上と戦争が激化した
こんにちは、ベジ紀です。
カッピカピさんやtanoさんが投稿されていますが、馬の家畜化は羊、牛、山羊に比べ、遅かったようですね。
それには、馬はなかなかいうことを聞かず、しかも乗りづらく、乗ったら乗ったで、すぐに振り落とされる。しかも、うかつに馬の後ろに立てば、ものすごい力で蹴り上げられる。
などなど、様々な理由がありそうですが、遊牧民が馬に着目したのは、その力にあったのではないでしょうか。
そして彼らは、その馬の力を引き出すために、技術と道具を次々に生み出していった。
続きはポチっ↓と押してからどうぞ。
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posted by jomon10 : 22:23 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年03月17日
中国針灸の歴史
中国針灸の歴史はどんなものであったのでしょうか。

西洋医学は(科学としての医学 :m256: )です。これに対して鍼灸医学は自然の医学 :m019: と言われています。厳しい自然の中で病気と戦って得た経験、膨大な臨床数に基ずく結果の集大成なのです。鍼灸について初めて記載されたのはいまから約2000年前です。 鍼灸治療の経験はそれより数千年はさかのぼると言われています。中国文明の発祥地である黄河で生まれました。
なんと最初は竹や石器などを使用していたそうです。
そして金属が発明されて金属の鍼を使うようになりました。
古代中国人の様子を具体的にイメージしてみましょう。外傷を受けたり、痛みを覚え本能的にその部位に手を当てたり、圧したり揉んだり、あるいはなめたり、さらには泥をぬったり、木の葉を張ったりしたと思われます。やがて文明が進歩し、火を利用し、磨製石器を使用するようになりました。鉄器が発達するようになると金属製の針が治療に応用されることになりました。こうして時間の経過と工夫とで、共にそれらの経験が集積されていったと考えらます。
:o イメージしてみると本当に自然の中で生まれてきた治療法だと理解できますね。 :m005: :m006: :m007: :m008:
小澤
posted by norio : 22:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
商業の発展により、身分制度(士農工商)が強化された
こんばんはetoです。少し間が空きましたね( :m108: )
暖かくなってきたことだし、がんばっていきましょう :m051: :m030:
今日は、中国の勉強をしました。
「士農工商」といえば、江戸時代の身分制で有名ですね。
でもその起源は古く、中国の春秋戦国時代(BC500年頃)にあります。
どのようにして身分制ができたのでしょう?
>中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」を重視されてきた。商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えたのである。これを理論化したのが、孔子の儒教である。(ウィキペディア)
時代を追って見ていくと、
●周時代の様子をmaeyanさんが以下のように書かれています。
>この貴族制の確立に伴い、貴族は王族を凌ぐ勢力 を持ち始めます。
>土地経済の発展は、地方豪族の勢力を拡大させ、中央支配の力を弱めていきます。
土地経済の発展により、地方豪族が力を持ち始め、一方で中央支配の力が弱まり、王族は支配の危機感が増大していることが伺えます。
続いて、春秋戦国~漢までの様子を見ていきましょう。
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posted by nishipa : 21:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年03月08日
馬家畜化の発展には草原が適していた
:D こんばんわ。tanoです。
馬の話しになっていますので以前調べた馬の投稿を紹介します。
中央アジアの冶金交易になくてはならないものが運送手段である。すでに同時期、馬の利用が始まっていた事を著書「中央ユーラシアの考古学」では解説している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中央ユーラシアにはじまって世界史に大きな影響を与えたことのひとつは、馬利用の開始とその伝播の問題である。これには馬の肉、皮、毛、骨、乳利用もあるけど大きなことは人間に労働力を提供する役畜としてである。役畜としての馬は大きく言えば騎馬、牽引、駄載の3つの形態がある。馬の背は歴史を作った。
現在わかっていて、今後も訂正しないであろう事実の大筋は以下の3点である。
1.馬の家畜化時期は羊、牛、山羊より遅い
2.馬家畜化の場所は中央ユーラシア草原地帯である。
3.馬のユーラシア全域への伝播は大きく関係したのは騎馬ではなく、車輪ー馬車の牽引であるらしい。馬車の普及は前2千年半ば頃であり、騎馬の普及はすこし後であろう。
馬の家畜化はまだはっきりしていない。現在家畜馬の先祖種はおおまかには元々アルプス~カフカス~パミュールの北方に棲息した動物であって、ここを舞台に家畜化されたものには違いない。
家畜馬の先祖についてはタルパン馬とモウコノウマの2種が長らく議論の中心であるが決定打はない。
←モウコノウマの写真です。
posted by tano : 00:50 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年03月07日
騎乗技術が遊牧民族を巨大な軍事国家へと後押しした?
こんにちは、カッピカピです。
昨日のちわわさんの記事を受けて、遊牧民族と馬の関係について少し調べてみました。
馬が家畜化されたのは、紀元前3000年~4000年頃と言われており、現存する家畜の中で、家畜化が最も遅かったそうです。
馬の人類への貢献度としてもっとも大きな比重を占めるのは、この動物の労働としての有用性の高さだと言われています。
すなわち・・・
続きはポチっ↓と押してからどうぞ。
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posted by hi-ro : 21:34 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年03月06日
馬が強大な軍事国家を作り出した。
こんにちわちわわです。
狩猟・採集で犬が活躍したように、家畜の歴史は人間と深い関わりを持ちます。では、馬は人間とどのように関わってきたのでしょうか。

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2007年03月04日
古代中国:神聖政治から王による政治支配へ
中国の古代王朝は、伝説の夏王朝から、商(殷)、周へと移行していく中で、その政治スタイルも変貌をとげていきます。以下、「中国奇貨居くべし」(http://www.h3.dion.ne.jp/~china/)から、紹介していきます。
大きな流れは、古代的な神聖政治から、王 :m261: による政治的支配への転換です。
商王朝では諸氏族の勢力を力の背景としており、政治的な秩序は確立されていなかった為、それそれの氏族が行っていた祭祀を、王が独占して行うことで、政治力を行使していた様です。
従って、王朝の神聖性の確立と維持が、政権の最重要事項となっていたのです。(=神聖政治)
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2007年02月21日
貨幣もバイリンガル?!
こんばんは :m017: みつこ :D です。
さーねさんの記事『殷(商)王朝~貝貨という幻想』とても興味深かったです。
で、貨幣についてあれこれネットサーフィンしていたら、同じ参考HP :m108: で面白い記事を発見しました!
先日のなんでや劇場で「王様交易(大遠征交易)」と名づけられた、古代交易の代表格シルクロードにまつわる貨幣です!
シルクロードのどのあたりかって言いますと、、、、
このあたり :m118: :m118: :m118:

どんな貨幣~ :m050: って思った方はポチっと応援の後、読んでね。
posted by mituko : 01:17 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年02月18日
古代中国:祖先信仰による支配体制
弥生時代には祖先(祖霊)信仰が、日本にも来ていたのですね。
では、本場中国の祖先信仰と、支配体制の関係はどうなっていたのでしょうか?
古代中国では、殷や周の王が土地支配の拠点として都市国家をどんどん作り、そこへ諸侯や身内を派遣して支配していましたが、彼らを秩序化していたのが祖先信仰(宗法)だったようです。
↓応援よろしくお願いします
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posted by ihiro : 16:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年02月13日
弥生時代に持ち込まれた祖霊信仰
こんばんは~ :m017: 最近信仰ってなんだろう~?と追求中のbunchanです :m072:
ひとことで「信仰」といっても、いろんな信仰があります。
始源人類の最初の信仰は、「精霊信仰」でした。
精霊信仰とは、万物の背後に霊を見るというもの。あらゆる自然を注視し、それは観念機能の獲得にもつながっていくものでした。縄文人もこの精霊信仰をしていたと思われます。縄文から弥生に時代が移ったとき、弥生時代にもたらされたのが「祖霊信仰」でした。もともとは皆同じように墓に葬られていたのですが、特定の人の墓に特別な副葬品(銅鏡など)を一緒に埋葬したりやがてはその特定の人の祭祀を行ったりして先祖を祭るようになっていきました。

福岡県須玖岡本遺跡出土の前漢鏡(草葉文鏡)のレプリカ「弥生ミュージアム」 さんよりおりしています。
「祖霊信仰」ってなに?どこからきたの?
続きを読む前にクリックお願いします :m030:
posted by bunchan : 21:48 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年02月05日
中国文明~手掛かりとなる史料
中国文明では、様々な史料の名前がありますが、どうも今までどんなものかがわかりませんでした^^;
今日は、中国文明解明のカギとなりそうな歴史書を紹介します。
・『ト辞』ボクジと読みます。
・『国語』普通に読んでください。
・『春秋』これも普通に。
・『晏子春秋』アンシシュンジュウと読みます。
・『史記』これは有名ですねー⇒司○○さんの著ですね :m049:

ト辞:獣骨に刻まれた甲骨文字
今日参考にしたのは、中国歴史奇貨居くべしさんと世界史小事典(山川出版社)です。
中国歴史奇貨居くべし によれば、歴史書の他に、思想書・兵書・文学書(伝説)等があるようです。こっちもぜひ参考に :m051:
posted by sawatan : 19:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年01月21日
中国文明の王位継承=世襲制とは?
縄文ブログ :m027: 最近盛り上がってきましたねー :m051: さーねです :wink:
今日は、中国文明。中国奇貨居くべし「王位継承パターン」という記事。世襲制=生涯固定の身分制度確立過程の仮説です。
>古代王朝の王位継承について、『夏王朝 王権誕生の考古学』に興味深い学説が紹介されていましたので、ここで取り上げてみたいと思います。これは立命館大学の吉本道雅氏の説です。
①有力者たちの中から王を選出する「王位」の出現…英雄時代(五帝)
②特定の氏族が王位を独占する 「王朝」 の出現
③氏族(王族)内の特定の家系が王位を独占し、兄弟が順番に王位を継承…商王朝初期
④王の子が優先的な王位継承権を持つ親子相続「王統」 の確立…夏王朝・商王朝後期
⑤王があらかじめ自分の子から太子を指名…西周王朝
ポチっと :m051: :m118: :m118: お願いしマース :D
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posted by sawatan : 12:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年01月14日
神々の変遷~自然神・・・水の神”龍”
http://astro.ysc.go.jp/izumo/dragon.html#sento自然神の中でも水の神 :m007: とされる”龍”は、ちょっと変わった位置付けの神であるようです。 :nihi:
世界の各地に”龍”伝説がありますが、その姿や、位置づけなど、様々です。
しかも「水の神」=自然神でありながら、時と所を変えると、龍=皇帝の意味に使われたりしています。
今日はその中から代表的な”龍”を紹介したいと思います。
お急ぎ :m071: の方も、まずは下 :m118: のボタンを押してから次にお進み下さい :m299:
posted by saah : 12:00 | コメント (3) | トラックバック (0)
2006年12月17日
中国の母系氏族社会
中国では、約6000年前に黄河中流区域で母系氏族社会繁栄期 :m102: に入ったと言われています。その当時の状況について興味深い史実があったので紹介します。(http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX1-2.htm)
↓写真は、現在も母系社会を続けているナシ族の女性です

母系氏族社会の原始宗教は自然発生したものである。こうした宗教は、原始の人々が共同で生きていく中で考え出したものであるが、いったん生み出されると、氏族集団全体の信仰に変わり、生活の各方面に浸透していった。
~~~ 中略 ~~~
こうした原始宗教は自然崇拝・トーテム崇拝・天神崇拝・祖先崇拝などを含んでいたが、母系氏族制の中で最も特徴的なものは女性崇拝(女始祖崇拝や女陰崇拝などを含む)である。
中国の上古の大部族はすべて母系氏族から発展した。そうした部族連合を統率する者は、母親は知っていても父親は知らないことが多く、自分は竜・閃電・虹などの自然物が人間と感応して生まれたのであると考えていた。
posted by postgre : 23:35 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年12月03日
古代中国が一妻多夫制だったって本当?
古代中国は母系制社会だったと言われていますが、それは「姓」に表れています。
サイト「中国的こころ」http://www.h3.dion.ne.jp/~china/に林雅子氏訳『中国姓氏考』が紹介されていますので、引用して紹介します。
>中国人の名前には、姓、氏、名、字、号があります。ひとりの人物が色々な名で呼ばれるのは、これらが複雑に絡み合っているからなのです。
へー、こんなにあるとは知らなかった!
>古代中国人の男性の名は、「姓」+「名」で構成されていました。姓とは何でしょうか。
姓とはいわゆる苗字ですが、『説文解字』には「姓は人の生まれる由来であり、女に従い生に従うという。故に姓(女+生)という」とあります。その姓の由来はトーテム崇拝であるといわれています。
トーテム崇拝って何?
posted by postgre : 19:04 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年11月19日
中国文明~なぜ漢字=表意文字か?超国家を統合するためだった!?
中国4000年の歴史~とよく言いますね :D
黄河文明や長江文明~夏王朝をきっかけとした様々な王朝の興隆 :m054: …いろんなサイトに、その長さと数々の興亡 :m096: :m097: が記されています
今日は、黄河・長江文明後のいかに国家を成立させたか :m052:
漢字=表意文字であることが、実は国家を成立させるのに非常に重要な役割を担っていた :m050:
ちなみに今日は歴史サイトからの引用ではなく、面白いことに中国ビジネス系のサイトからの引用です
中国産業レポート 上海平野磁気有限公司 董事長 平野 信幸
第11回 <歴史に中国を観る> 第壱項
http://www.chinawork.co.jp/e-hirano/hirano-11.htm
ちなみに第弐項もなかなか面白いですよ~
日本人も普段使っている漢字
日本人なら読んでおかないとー
byさーね :roll:
続きを読む "中国文明~なぜ漢字=表意文字か?超国家を統合するためだった!?"
posted by sawatan : 15:39 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年10月26日
自然を利用する天水農耕と、自然を克服する灌漑農耕
メソポタミア地方では紀元前約4、5千年前にウバイド文化が起こります。時はちょうどそれまでの小氷期時代に温暖な地域を求めてメソポタミア一体に南下してきた人々が、その後のヒプシサーマル/クライマティック・オプティマムと呼ばれる長い温暖の時期に作った文化だと推測されています。
さて、この時代にはメソポタミア南部の低地帯を中心とした"灌漑農耕”と、北部の"天水農耕"の2種類の農耕様式があったようです。その後のシュメール文明を支えていったのは、後に再び寒冷化が始まり(紀元前3700年前ごろ)乾燥化が進んでいった南部だったようです。
何故北部メソポタミアではなく、南部の方が発展していったのでしょう。
続きを読みたくなった方はその前に下記をポチッと押してからいってください。
続きを読む "自然を利用する天水農耕と、自然を克服する灌漑農耕"
posted by saah : 22:06 | コメント (2) | トラックバック (0)



