2008年06月22日
道教の本源性を探る~『道徳経』の教えより
>④道教の根っこはどこにある?
・母系共同体を源流とする道教の本源性を探る。リンク
さて、今回は道教について調べてみました。
以前に、『道教~母系氏族社会を源流とした共同体規範』においてその本源性を紹介しましたが、今回は『老子』から『道徳経』の紹介です。
『道徳経』とは、中国の春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』とも表記され、『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。道教では『道徳真経』ともいう。
中国には数千年にわたって人々の心に大きな影響を与えた書として、『易経』、『論語』、『道徳経』の3つがあります。
『易経』は夏・商・周の時代の原始宗教が残したもので、その中に古い巫史文化の形跡を見ることができます。
『論語』は儒家の祖師孔丘の教えを伝えるもので、その中には周代の父権宗法社会の礼教の特徴が見られます。
『道徳経』は周代の史官老が著した道家と道教の典籍で、中国の最も古い母系氏族社会の原始宗教の伝統を受け継いでいる、と云われています。リンク
母系氏族社会の伝統とはどんなものか!?、覗いてみましょう!
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2008年06月21日
中国の焼物の歴史(日本の縄文時代と同時期編)
日本の縄文時代は、年代でいうと今から約16,500年前から約3,000年前(紀元前10世紀)の約13500年間続き、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代です。その永い期間に日本は特別進化したわけではなく、逆に永い間に日本人の潜在思念を作り上げてきたということが言えると思います。縄文土器も同じく、その間特別に進化したわけではありません。
縄文時代と同じ時代、方や中国は黄河文明、長江文明、から殷、周と王朝支配まで時代が変わっていきます。そして中国の焼物は、日本の縄文土器とは違い、次々と進歩しました。窯と釉を発明し、施釉陶器を生み、さらに精製・選別した白色粘土による磁器を発明しました。この磁器が世界の磁器の牽引役となったのです。日本をはじめ、南北朝鮮・ベトナム・タイ・カンボジアなど、古代から中世にかけて、いずれも中国陶磁をその母体に持っています。また近世にいたっては、ヨーロッパの磁器の源となりました。人気の高いウエッジ・ウッドやロイヤルコペンハーゲン、マイセンなど、みな中国磁器を母体としています。
中国の焼物の歴史(日本の縄文時代と同時期編)を紹介します。
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2008年06月07日
中国、母系→父系制への転換期③:強大な母系集団“三苗古国”vs父系集団“竜山文化”のせめぎあい
中国古代は、強力な母系集団(特に長江文明の三苗)が残り、黄河流域の中原に依拠した父系集団の竜山(龍山)文化と対峙し、数百年に渡って緊張した関係にあった。紀元前3000年~2500年前ごろのことです。

長江の中央部あたりに見える、屈家嶺文化のあたりが三苗と長江文明の中心部。石家河文化もこのあたり。
(図は、古代であそぼさんからお借りしました)
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2008年05月12日
中国文明の起源~興隆窪文化の概要報告
中国文明における“龍”の起源を探り、前回は紅山文化から興隆窪文化まで遡りましたが、ここで中国文明の起源のひとつと言われる遼河文明の興隆窪文化について押えておこうと思います。
(主にこちらより引用しながら紹介します。)

この写真は紅山文化、牛河梁遺跡の碧眼女神像です。
何故に“碧い眼”の女神なのか? この謎も含めて調べてみました。
こちらは遼河文明の遺跡図です。

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2008年05月11日
中国文明:遊牧部族が侵入したのはなんで?
先日、遊牧民族の動向を調べましたが、逆に、彼らはなんで度々中国へ侵入したのか?単純に、遊牧部族の戦闘性だけを理由付けにしても何か片手落ちな気がしました :m196:
:m118:
な の で
:m118:
彼らはどんな外圧に晒されていたのか?調べてみました。 :m193:

遊牧の生活はとても厳しい~ :m008:
byさーね
今日は、楽しい世界史~遊牧生活はキビシイを参考にさせて頂きました :m061:
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2008年04月29日
中国古代:竜山文化期の遊牧民族動向
中国、母系→父系制への転換期①:BC3000年の竜山文化は既に父系制・身分制への時代は、やはりその後の王朝成立や春秋戦国時代への歴史過程を考えると、中国史上転換点 :m008: の時期であると思います :confused:
今日は、中国を調べるのではなく、周辺地域からこの時代の遊牧民族の動きを追ってみました :o
:m118: :m118: :m118: :m118: :m118: 地図でいうとこの辺り :m118: :m118: :m118: :m118: :m118:

byさーね
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2008年04月27日
中国最古の祭祀 ~その意味は?~
前回の記事では、紅山文化のあらましを紹介しましたが、今回は宗教センターについてその意味合いを追求してみたいと思います。
紅山文化(5000~6000年前)は採集、狩猟、漁猟を基盤としており、中国の他地域がすでに農耕、牧畜へと移行していることからすれば、紅山文化が縄文文化に最も近い関係にあるといえます。
紅山文化の社会では宗教が発達し、5000年前には空前の規模の宗教センターが出現します。
その祭祀遺跡は、女神廟、祭壇、積石塚群、金字塔形大型建築から構成されており、女神廟の中には数多くの女神土偶が奉納されていました。
この女神像はなにを意味する :roll: のでしょうか?

写真は、東山嘴遺跡の祭壇跡から発掘された土偶です。(写真は考古用語辞書さんから拝借しました)突き出たおなかは、妊婦を表したものとされています。
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2008年04月13日
中国古代母系集団は、父系軍事集団(遊牧由来)に服属することで吸収・解体されていったのではないか?
中国における母系集団から父系集団への移行について、その移行段階を大きく概観するため、調べてみました。
地図:紀元前5000年~3000年くらい前の中国 古代で遊ぼさんよりお借りしました。
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2008年04月12日
龍の起源~精霊信仰より生まれた守護神
こんばんは、etoです!
“龍の起源を考えることは、文明の起源を考える事に他ならない”とは、かの安田喜憲氏の言ですが、あらためて龍について考えてみます。
saahさんの『神々の変遷~自然神・・・水の神”龍”』においては、龍について以下のように書かれています。
>古代中国において、初めは純粋に水を自由に操る神として崇拝されていたものが、やがていつの間にかその自然を自由に扱う神秘な力を持った存在が、民を自由に支配する皇帝の呼称になり、、、
確かに龍といえば、大河で生まれた水の神、あるいは蛇信仰が原点になっていると思いますね。
でもちょっと違うようです。

この写真は、約6000年前(新石器時代)紅山文化の牛河梁遺跡にて発見されたもので、玉猪龍と呼ばれている物です。イノシシ? そう、なぜに猪なのか、史実をもとに見ていきましょう。
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2008年04月03日
中国文明のなんで? PART2
こんばんは、etoです。
いつも応援いただき、ありがとうございます!
さて、最近は主に中国文明を追求していますが、このところちょっと停滞気味(;^_^A
そこで、改めて追求テーマを設定してみました。
①中国第三の文明“遼河文明”(=興隆窪文化~紅山文化)って何?
長江、黄河以外に古くから文明が形成されていた遼河地域が注目されていますが、遼河文明の特徴として以下の点に着目してみたい。
・中国最古の玉文明~西アジアとの交流?を探る。
・中国最古の龍~守護神信仰の起源を探る。
・中国最古の祭祀~その意味を探る。
・三内丸山、アイヌとの関連を探る。
②父系に転換したのは、何で?
(服属しながら父系に転換したとは、どういうことか?)
母系から父系への転換は、すでにihiroさんより投稿されましたが、継続テーマとして追求していきます。
③市場の起源~地域間交流はあったのか?
黄河文明と長江文明の間で地域間交流があったとされていますが、それは交易(市場)なのか、贈与(友好)なのか、はたまた何なのか?
④道教の根っこはどこにある?
・母系共同体を源流とする道教の本源性を探る。
・東洋医学、気孔、漢方などの起源は?・・・道教に関係する?
以上のようなテーマに取り組んでいきます。
その前に、前回の追求テーマにどう取り組んできたか、見てみましょう。
posted by nishipa : 22:39 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年03月15日
中国文明:中国の地形と気候
今日は中国地図を記事にしてみたいと思います :-)
:m118: ということで、こんな地図をつくってみました :m118:

中国地図vol.1 :m119: ここをクリックすれば大きくなります :m051:
中国大陸は広大っ :m051: :shock: 歴史を調べていても、場所がどこだがわからなくなる時もあります :confused:
その地の環境がイメージできると、歴史もより鮮明になると思います :o
若干、現代的になってしまいますが :m196: 、当時の自然環境を大きく捉えることはできるのではないでしょうか :m050:
byさーね :m044:
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2008年03月03日
中国の母系から父系への転換期はいつか?
古代中国では、生産性の向上をきっかけに、男女の役割分担が変わっていく中で、母系社会から父系社会に転換していくという説や、洪水の治水が父系への転換のきっかけになってきたという説等、いろいろ諸説ある様です。
じゃあ、その転換期はいつなんだろう :roll: と思っていたところ、こんな記事がありました。
中国における最古の国家 :m261: は夏、殷(商)、周に始まるというのが通説ですが、これ以前に中国の北方で栄えていた紅山文化(BC3000~4000)において、最近、気になる研究結果が提示されました。

写真は、紅山文化を代表する猪竜という玉飾りです。これは、中国で始めて登場した竜の原型とされています。
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2008年02月03日
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史③~夏王朝は羌族の手によるものか?
中国西北部の高地にいた古代羌族が、黄河上流に斉家文化、長江上流に三星堆文化を起したであろうことは前稿で書きました。今回はさらにその続きです。
●まずはトルコ石のお話から。
下の左の写真は斉家文化(BC2000)の玉製牌飾?らしく、右の写真は二里頭文化初期(BC1700頃)の青銅製牌飾です。(こちらよりお借りしました。)


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2008年01月27日
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史②~内陸部への進出の足跡
こんにちは。
前稿では、中国西北部にいた遊牧民族の古代羌族が、中原に進出、あるいは南進した概要をお伝えしましたが、今回は、具体的にどのような足跡を残したのか、紹介していきます。
ここで再び中国の地図を紹介。

(古代で遊ぼさんよりお借りしました)
>青海から甘粛にかけての地域に、馬家窯文化と呼ばれる新石器時代(4000-5300年前)の遺跡が発掘されている。これらの主は古代羌族と考えていいだろう。
>青銅器時代(3000-4000年前)になると、斉家文化(甘粛から青海にかけて)やカユエ文化(青海湖東の湟中県)、寺ワ文化(甘粛)、上孫家寨類型(青海大通県)、辛店文化(甘粛)、諾木洪文化(青海都蘭県)などが次々と登場するが、どれもやはり古代羌族と考えられる。土器表面の紋様を見るかぎり、高度な文明をもっていたことがうかがえるが、中原の漢族の影響や交流も同時に感じられるのである。
>チベット高原の東部、チャムドでは、カロ(Kha rub)遺跡(4000-5300年前)という謎めいた大規模遺跡が発掘されている。古代羌族はこんなにも早くチベット高原にたどりついていたのだろうか。出土物からは西域やカシミールとの交易も考えられ、古代はわれわれの想像よりはるかに交流が活発に行なわれていたのかもしれない。
>中国の学者は、古代羌族の南下のもっとも早い例は、4、5千年前の雲南・四川にまたがる大敦子および礼州遺跡ではないかと見ている。
近年注目を浴びている四川盆地の「超古代文明」、三星堆遺跡の主は古代羌族と血縁関係にあると思われるが、より具体的にはテイ族の一種、巴人ではなかろうか。テイ族は低地に住むようになり、遊牧から農耕へと生活をシフトしていった羌族とみられている。(以上、「送魂路」さんより引用)
どうやら、古代羌族は5000年前(BC3000年)くらいに黄河上流や長江上流へと進出し、遊牧から農耕へと転換し、定住化しては高度な文化を築いたものと思われます。
また、BC3000年頃においては、下の図に見るように、各地の文化間の交流があったようなのです。
(中国的こころさんよりお借りしました)
>B.C.3000年代は、黄河中・下流域の龍山文化のほかに、黄河上流域の斉家文化、長江中流域の屈家嶺・石家河文化、長江下流域の良渚文化が並存し、それぞれ自立的な発展をたどりながら、地域間の交流が活発になって、地域をこえた共通性が現れるようになりました。
>山東・湖北で産する豆形土器は、中国西北部の山西龍山文化に伝わりました。
良渚文化で産する玉琮・玉璧も山西龍山文化に伝わり、さらに陝西龍山文化・斉家文化に達しました。
>山東龍山文化で産する玉璋・玉斧・玉刀も山西龍山文化に伝わっています。
一方、西北部から河南・山東地域には鬲形土器や羊の飼育、卜骨の風習が伝わっています。
>これらを見るに、相互に生産物や風習が交流されていたことがわかります。それは隣接する地域の間を少しずつ伝わっていき、しかも各種ある生産物のなかから一部だけが選択的に受容されていったものであり、各地の生活方式を一変させるようなものではありませんでした。つまり生産物を輸出する側に主体があったわけではなく、あくまでも受容する側に主体があったのであり、強い強制力はそこに発生したとは考えにくいのです。
(以上、「中国的こころ」さんより引用。)
この“交流”とは一体なんなのでしょうか?
古代羌族が黄河上流につくった斉家文化には下流の山西龍山文化の影響が見て取れるし、長江上流につくった三星堆遺跡からは下流の良渚文化の影響が見て取れる。 “交流”というからにはその逆があって然りなのですが、しかし逆方向は無いのです。
これは何を意味するのでしょう?
仮説ですが、中国西北部の高地にいた古代羌族は黄河上流へ、長江上流へと進出し、さらに下流へと進出していくなかで、下流の高度な文化を手に入れては持ち帰った。このようなことが何度も何度も行なわれては上流に定住するようになり、一方の下流域においては遊牧民から守るために環濠集落を構築していった、のではないかと思われます。
良渚文化、山東龍山文化、石家河文化、山西龍山文化などの下流域の文化はB.C.3000年代末のほぼ同時期に崩壊しています。それは洪水なのでしょうか?それとも、、、遊牧民の仕業なのでしょうか?
そしてその後、中原においては夏王朝と想定される二里頭文化が生まれるわけです。
、、、良渚文化などが一斉に滅んだのは何故でしょうか?
、、、そして、二里頭文化(夏王朝)の主は誰だったのでしょうか?
また疑問がでてきました、引き続き追求していきます。(by eto)
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2008年01月21日
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史①~略奪の始まりは羌族か?
さーねさんの前作では、人間扱いされなかった「羌」や「南」の“異民族”のことが紹介されましたね。
この「羌」とは一体何者なのか? 調べてみました。
>羌という文字は甲骨文のなかに頻出する。商(殷)王朝と戦って捕らえられた羌人は人身御供、つまり祭祀の生贄とされたのである。(「送魂路」さんより引用)
>古代羌族(きょうぞく)は、陜西省から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)にいた遊牧民族で、白狼を崇拝し、自らを白狼の子孫一族としています。
>羌族はチベット系民族ですが、その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族で、やがて、中国西部に広く勢力を伸ばしてきます。三皇五帝以前より、度々中原に進出し、葛藤と同化を繰り返します。やがて同化し、漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれます。
南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となります。その時代になると、南羌族のトーテムは「羊」に変わっています。「白狼」崇拝は、西羌族だけとなり、彼ら一族は、時に胡人とも呼ばれるようになります。(「レアメモリー」さんより引用です)・・・漢水とは長江の支流のことで陝西省の南部を指します。
>チベット高原の東端、四川省西部の山岳地帯は、かつて幾つもの古代民族が移動と興亡を繰り返した地域である。数千年前、中国西北部の古代民族「羌」の一部は故地を追われ、新たな土地をもとめてここを南下したという。現在、この一帯に居住するチャン族やギャロン、白馬、ナムイなどのチベット族および雲南のプミ族は、この古代「羌」の末裔と目される人々である。(松岡正子氏の論文より引用です)
ここで中国の地図を載せておきます。
青海湖辺りに西羌族、天水辺りに南羌族がいたわけですね。

(古代で遊ぼさんよりお借りしました。)
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2008年01月19日
中国文明:意識の源流を探る~「人間」ではなかった人々
最近、中国ネタの記事を読んでいて、ふと感じたこと。やはり、この国の人々の意識は何か違和感を感じざるを得ない :confused: 一体、どこに源流があるのだろうか :m050:
今までは、どうも支配する側の意識を追求しすぎていたと感じた。今日は、支配する側だけでなく、農民などの庶人の意識などにも視点を置こうと思います :wink:
じゃぁ、どの時代か…やはり殷ではないかと考え、史実を改めて追ってみると…

これほどの扱いを受けると人間の意識はどうなるのだろうか?恐ろしさを感じた :m196:
byさーね
:m118: 応援よろしくお願いします :m051: :m118:
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2008年01月07日
漢民族の正当化観念“中華思想”の歴史
こんばんは、etoです。今年もよろしくお願いします。
以前、「中国文明のなんで?」にて、“なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?”というテーマをあげ、いくつかの書込みをいただきましたが、今回は“中華思想”について勉強しましたので紹介します。
●中華思想を平たく云うと?
「中華思想」の「中華」ですが、これは「中」と「華」からなっており、「中」は「世界の中心」を意味し、「華」は「夏」-支那史上初の世襲王朝「夏王朝」を表し-転じて「支那」自体を意味しています。つまり、「中華」とは、世界の中心である夏(華=支那)と言った意味なのです。
「中華思想」では、支那の周辺諸国は「野蛮な異民族」とされ、その地理的(方位的)所在に合わせて、東夷(とうい-朝鮮・日本)・西戎(せいじゅう-チベット・中央アジア)・南蛮(なんばん-東南アジア・インド)・北狄(ほくてき-満州・モンゴル)に分類されています。(以上、リンクより引用しました。)
●どのように中華思想が形成されたのか?
中華思想は春秋時代に形づくられたとされる。そして、その形成には漢民族の形成と周の文化が大きく関連している。
●では、漢民族はどのように形成された?
紀元前二二一年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返した。そして、この興亡の中から漢民族が形成された。すなわち、漢民族とは、諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「夷」「戎」「蛮」「狄」の子孫であり、夏・殷・周もこれら夷狄によって作られた国である。
そして中華思想は、周王朝の実態が弱まり、権威が薄くなった春秋時代に生じたが、その時代は漢民族が前から引き続き、さまざまの民族の血を取り入れて構成されつつある時代でもあった。ところが、政治的に周王朝の実態、権威がなくなっても文化的まとまりをもってきた漢民族は、周王朝の存在を否定するものではなく、たとえ形だけになっても周王朝の権威を尊重していた。
●周の権威がなくなった後も、周を尊ぶのは何故か?それが、周の文化の中心である徳や礼のためであると考えられる。そして、中華思想では特に「礼」が大きく関係している。
●周の社会システムにおける「礼」の役割とは?
周王朝の最大の特色は、周室と諸侯、諸侯と群臣とが周室を中心にした巨大な分節社会(封建制)を形成していることであり、しかもこの社会は、同血族社会ではなく、異性の者が分封されていたこと。さらにこの社会は、周王―諸侯―氏(卿・大夫)……と下部に至るに順って、即ち、周室を本とし、その分派が末端に及ぶに順って、その所有する財産(例えば領土面積・人民数など)が次第に逓減する所に在る。
周において、国の秩序を守るために政治の力や刑罰によって規制するのではなく、「礼」を重んじることで、人民のほうから近づいて来ると考えられていることがわかる。周時代における「礼」は、分節社会(封建制)の秩序を構成するために重要な役割をしていた。
●儒教における「礼」とは?
春秋時代、周の文化を再現することを理想とした人物がいた。それが孔子である。
『孟子』滕文公上に、(吾夏を用て夷を變ずる者を聞く。未だ夷に變ずる者を聞かざるなり。)とある。ここには明らかに華・夷の差別が存在している。華・夷の別の出現、これが、中華思想が周を経て、春秋時代に形成されたと考える理由である。
周の時代、「礼」は社会構造の秩序を構成するものであった。それが、儒家の中では華・夷を区別する基準になっているのである。しかも、ここで重要なことは、華・夷の差別が種族的なものや血族的なものではないことである。すなわち、夷も華の「礼」を身につければ、華の仲間入りができるのである。
中華思想の特質について、地理的・文化的な要素から自国を世界の中心とする考え方は、中国以外の国(バビロニア・インドなど)にも存在していた。しかし中国には、他国とは明らかに違う要素が存在していた。それが、道徳的政治思想・王道政治という要素であり、この考え方は、他の国には見られないものである。
●中華思想とは?
中華思想は漢民族の形成と大きく関わっていた。つまり、中華思想は漢民族の持つ思想であると言っていいだろう。その漢民族を世界の中心とし、他の周辺民族を「東夷、西戎、南蛮、北狄」と分けて蔑視することが中華思想である。そして、中華思想における差別は地理的なものではなく、文化的なもの(礼)である。
中華思想の一面である保守排外の傾向は、「我々は世界の中心である」とする中華の自負心・自尊心が傷つけられた時に現れる。そして逆に、国家の自負心・自尊心が傷つけられる事がない時、開放博愛へと傾く。中華思想の保守排外の傾向が強いとき、自国と「夷・戎・蛮・狄」の差別は強烈になる。そして、開放博愛の傾向が強い時、夷狄との婚姻・盟約が行われる。簡単に言えば、自分が危険だと思ったならば自分を守り、自分が安全だと思ったならば仲良くする。こう考えると、中華思想はなんとも単純なもののように見えてくる。
漢民族が形成され、日常生活において礼の考えが重視され習慣となる。その漢民族の習慣は周辺の国とは違うものであった。自分と他者との文化の違いを見ただけならば、周辺の国と友好関係を保つことができたのかもしれない。しかし、周辺の国が中華を圧迫する。その時、自己を守る必要が生じた。そこで、自らの文化を自らが尊いとする事で、周辺国家との格差を作った。そこで生まれたのが、「夷・戎・蛮・狄」の存在だった。ここに中華思想の二面性の完成を見る。
昔の人が、自分の住む地域を「中心」と考えるのは自然であろう。中華思想は、簡単に言えば自己防衛の手段だ。攻められるから闘い、平和であれば闘うことは無い。ごく単純なのだ。
(以上、「清朝の中の中華思想」より引用しました。)
★簡単にいえば中華思想とは、自民族(漢民族)を第一とする正当化観念であり、周時代の支配体制における成功体験を母胎に、「礼」という序列規範を中心観念として春秋時代に形成されたもの、と云えるのでしょうか。
さて、気になったのは、>夏・殷・周も夷狄によって作られた国である<という点で、王朝成立以前の古代中国において、東夷、西戎、南蛮、北狄の諸民族がどのようにせめぎ合っていたのでしょうか。次回は、中でも西戎(羌族)の歴史について調べてみたいと思います。 (by eto)
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2007年11月17日
教科書では教えてくれない(遊牧の起源) 西アジア~中央アジア~中国年表
遊牧の起源を押える為に、るいNETWORK掲示版の「遊牧の起源と特異性」の有用な投稿を、頭を整理する為に以前に投稿した「教科書では教えてくれない中国年表」に追記して見ました。
この作業を通じて感じたことは、遊牧における各々の時代の投稿内容が、実に良く連関していることが分かりました。
更に驚いたことは、「遊牧の起源と特異性」の年表が、先に投稿した「黄河文明と長江文明」の年表に繋がったことです。又、この2つの年表を繋げたのは、BC11000年:ヤンガードリアスの寒冷化、BC6500年:ローレンスタイド氷床融解、BC4000年:北緯35度以南の乾燥・砂漠化、BC2000年:火山爆発で灰が空を覆う。といった大きな環境変化でした。この人類史を知りたい方は是非、見てください!!!遊牧の起源を追求したい人はポチッと押してね!
「教科書では教えてくれない(遊牧の起源) 西アジア~中央アジア~中国年表」
ファイルをダウンロード
年表の構成は、時代毎に、「気候変動=環境外圧」⇒エポック⇒闘争区分(ここは中国のみの記載です)⇒交易・情報伝播⇒黄河文明⇒長江文明⇒中央アジア・モンゴル(遊牧の変遷)⇒西アジア(遊牧の変遷)を見ていくようにしています。追記した中央アジア・モンゴル、西アジアに青色で網掛けしています。又、追記した文字は濃い緑色で記載しています。最上段の気候変動、環境外圧の欄の青文字と関連しながら見ていくと、遊牧民族の発生から騎馬民族への変遷過程が見えてくると思います。
基本的に生物は外圧適応態と言われていますが、この年表を通じて人類も例外では無かったと理解出来ます。尚、年表に記載されている参考NO(例msg:○○○)の投稿を張り付けておきます。
(尚、【 】内は私の疑問で、投稿とは関係ありません。)
時間を要しますが一読しながら年表を見ると、教科書には書かれていない西アジア~中央アジア~中国の歴史が、そして遊牧民族の起源が見えてくると思います。
皆様の役にたてば嬉しいです。一緒に追求して行きましょう。
・投稿「131588」:環境史からみた西アジア(農耕~略奪の起源)
・投稿「85771」:ステップ地帯へ拡散して同類闘争を回避したレヴァント南部の採集部族→遊牧の起源?
・投稿84104:農耕・牧畜が始まった地域における自然圧力の変化(気候変動)
・投稿52477:ステップ遊牧民と砂漠・オアシス遊牧民の起源
・投稿94845:西アジアの気候変動①(8200~7800年前ミニ氷河時代、7800~5800年前気候最適期)
・投稿131577: 5800年~4200年前の西アジア(乾燥化による略奪闘争の開始)
・投稿52832:最初の遊牧民は徒歩移動
・投稿92143:遊牧民族の登場から私権国家の成立まで
・投稿152412:遊牧と騎乗
・投稿141984:遊牧は牧畜の遠征から始まった
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2007年11月03日
中国:数々の歴史書の輩出は何を意味しているか?
歴史事実を発掘するという作業は大変だなと思う今日この頃 :nihi: 中国は、発掘調査と共に、やはり数々の歴史書から当時の社会背景をしっかりと押さえ、その上で読み解くという作業が一定必要だと思う :tikara: 最近、中国の歴史書の代表格『史記』を読んでみようと思い、以下の著書を読み進めているところです :o

『史記・貨殖列伝を読み解く 林田慎之助著 講談社』
中国は、歴史書の数でも有数の文明であると思うのですが、なぜ、そのような歴史書が数多く輩出されたのか?ここは実は不思議なところでもあります。それと共に、歴史書を読み解く上で、ここはしっかり押えておいた方がよい。その、手掛かりになりそうなところを今日は紹介しようと思います :o
発憤著書ということばがある。文字通り、憤りを発して書物を著すという意味のことばであるが、これを最初に使ったのは、司馬遷であった。司馬遷は、思想・文学を言語に表現した著作を創造する動機には、作者の側に発憤の心的状況が存在していたと考えるもので、中国の古典的作品を創造した著者たちのおかれた状況に照らしてみても、発憤著書の動機説を認めざるをえないと語っている。
:m118: 歴史は事実を知ることが大事 :m051: :m118:
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posted by sawatan : 22:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月21日
中国の特有の人間関係 「幇」
>・なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?・・・・・ちょうどるいネットでも紹介されていますが、中国人は血縁の結束力は強いが、他に対しては出し抜くことばかり考えているという。その源流はどこにあるのでしょうか?中国文明のなんで?
こんにちは、Hiroshiです。
中国人の身内での結束力と、身内や親しい人以外に対しての割り切り、非情さ。その性質を巡って中国人に対する評価が、大きく分かれているように思います。
それを解く鍵・キーワードは、「幇」(“パン”または“ほう”)という言葉にあるようです。
★中国社会の構成は極く簡単にまとめると、
縦軸(血縁のつながり)として父系集団としての「宗族」があり。
横軸として仲間や連帯の契りを結んだ「幇」がある。
宗族についてはとりあえず、 「中国社会の基本構造:宗族と祖先崇拝・儒教」を参照してほしい。ここでは、主に「幇」について調べてみたい。
みなさん「幇」ってご存知でしょうか?僕なんかどうも青幇・紅幇なんかの秘密結社?とかを思い出してしまうのですが、どうも中国人至るところ「幇」ありという感じらしい。
たとえば、世界中に進出している華僑。華僑より>
華僑は「幇(パン)」という同郷同胞の連帯組織を作り、相互扶助を行う。
「幇(パン)」には次の2種類ある。・郷幇(きょうばん)……籍貫(しゃくかん)(=出身地)に基づく地縁的集団。会館(同業・同郷・同族者らが集会用に異郷に建てた施設)、義塚または義山(共同墓地)、学校、病院などを建て、相互扶助を行う。 主な郷幇は、福建幇、潮州幇、客家幇、広東幇など。
・業幇(ぎょうばん)……同業者で作る職業的連帯集団。仕事上の便宜を与え合う。
・・・地域生活や仕事の共同組織としてかなり生活に根をおろしている様子がうかがえます。
posted by ihiro : 15:39 | コメント (7) | トラックバック (0)
2007年10月20日
中国文明:中国という国の本質は?
今晩は、さーねです :o 以前、おざわさんが記事をアップされていた中国の夏王朝はあったのか?その投稿に、tanoさんがコメントされていた一文です。
それにしてもこれまで中国は周から始まったといい続けられてきたのはなぜでしょう?単に遺跡が発掘されなかっただけでしょうか?中華思想にとって周以前の歴史事実は不要である。伝説にしてしまえ。そんな国家側の意図があったようにも思います。
夏王朝が伝説にされたり、商王朝が極めて卑劣残虐な王朝と伝えられるのは僕は事実を歪曲して伝える中国の体質があるように思うのですが考えすぎでしょうか?
このブログで中国文明の勉強を始めて感じることですが、歴史事実をなかなか見極められないのが僕の実感です :confused:
今日は、東アジア考古学の研究者である京都大学 岡村秀典氏の著書「夏王朝 中国文明の原像」より、氏の問題意識を紹介し、中国の本質とは?その一助になればと思います :o
この本、ブログでも結構評判良いようです :m027: :D
:m118: みんなで事実を追求するために :m051: 応援を :m118:
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posted by sawatan : 22:18 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年10月07日
中国戦国:斉の首都 臨淄①~市場の起点:遊楽用の離宮の様子
臨淄の人口は、約五,六十万人をかぞえていたわけで、これは、古代においては驚くべき巨大都市である。この臨淄の市民には富裕なものが多く、町は市場を中心にして娯楽、演芸が盛んで、音楽・闘鶏・ドッグレース・博打・蹴球・曲芸その他あらゆる種類の娯楽が盛行していた。大道には車がぎっしり詰まって停滞しており、街路は遊行の人々が互いに肩と肩とが触れ合うばかりであった。そして、このような臨淄のにぎわいに匹敵するような都市が何ヶ所かあったというから、戦国時代の中国における都市の繁栄は驚くべきものである。(古代中国 講談社学術文庫より)
今晩は、さーねです :o 今日は中国:戦国時代の都市:斉(セイ)を通じて、さらに市場の様子に迫りたいと思います。日本は縄文晩期~弥生前期にさしかかったところ…そういう意味で、筆者同様僕自身も驚きでした :shock:

斉の首都 臨淄:実は河と海に近い…海上交易品も市場に流通したかも :m052:
今日も応援よろしくお願いします :m051: :m118: :m118:
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posted by sawatan : 14:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年09月11日
中国における紙幣の発展
こんばんは~ :m017: みつこ :D です。
さーねさんの「中国文明~春秋戦国~国乱れる時…市場が発達する!」を興味深く読ませてもらいました。
なんと :shock: 、紙幣を世界で始めて発行したのは中国だそうです。宋時代に四川地方で流通した“交子”というものです。
その発達してきた過程を詳しく述べたもの :m062: があったので、長くなりますが、紹介したいと思います。
応援おねがいしま~す :m092:
ありがとうございます :m101:
posted by mituko : 23:02 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年09月09日
中国文明~春秋戦国~国乱れる時…市場が発達する!
今晩は。さーねです :o 先月のなんでや劇場にて、市場論が扱われました :D (詳しくは、Trend Reviewの8/11なんでや劇場「ブログ『晴耕雨読』の市場論に学ぶ」の論点を見てください。)
最近は、BRICsと言われるように、中国も投資対象国=経済成長著しい新興国として注目されています :wink:
今日は、このブログらしく :m051: 古代中国の市場を遡り、戦国時代の市場の状況について、アップしたいと思います :tikara:

戦国の中国~まさに国乱れる…
:m118: 古代文明も現代に繋がる認識がある :m051: :m118:
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posted by sawatan : 13:30 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年09月01日
教科書では教えてくれない中国年表
るいNETWORK掲示版の「黄河文明と長江文明」の有用な投稿を、頭を整理する為に1枚の年表にまとめて見ました。各々時代の投稿内容が、実に良く連関していることが分かってきました。
中国の歴史を知りたい方は是非、見てください!!!みたい方はポチッと押してね!
posted by sakashun : 21:22 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年07月30日
中国人の二重規範
古代中国ファンの皆さま、こんばんは。
中国に村落共同体は存在しなかった。の記事に対し以下のコメントがありました。
中国の個人主義を西欧のそれと区別しなければならないと思います。 中国人は一旦信頼関係を結ぶと友人を絶対に大事にします。 つまり仲間にさえなれば絶対的な協働関係が維持できるのです。 中国という集合体が4000年以上に渡って多民族の合衆国であり、拠り所となる規範や集団が自らの 家族しかないという辺りが、その特殊性を作っているのかと思います。
たしかに西欧の個人主義とは違い、信頼できる仲間は大事にしますね。しかしその一方では欲の塊で殺し合いも辞さないという側面も持ち合せてます。
その二重構造は、いったい何を背景に、どこから生まれているのでしょう?
中国4000年の歴史において連綿と連なる民衆の意識構造について、「中国人の二重性」を参考にしながら考察してみます。
↓↓多くの方に見ていただけるよう、応援よろしくです↓↓
posted by nishipa : 18:33 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年07月28日
先史中国の掠奪闘争から王朝形成まで
中国関連、すごく投稿が増えてきてうれしい!ただ、少し全体像がわかりにくくなったので、ここで内容整理のため、中国の先史略奪闘争史をまとめてみました。
いままでの投稿を参考にまとめたものです。BC4000年頃に掠奪闘争が開始されたメソポタミア(今のイラク)方面の関連が分かるよう、初期のメソポタミアの動きも記載してみました。

メソポタミアと中国をむすぶ中央アジアの草原ルート
posted by ihiro : 23:30 | コメント (2) | トラックバック (0)